生活のYOGA#1 完璧じゃなくていいじゃない
もっと堂々としていい
自分の英語力を高めたいと思い、去年末から文通アプリを利用して海外の人と手紙を交換を始めました。
現在アジアや欧米などいろんな国の人とお手紙を交換しています。
私は普段日本人としか接しないので、外国人の方との交流はめちゃめちゃ良い学びになっています。
英語で相手とコミュニケーションを取っていること、異文化に触れられることもそうですが、私にとっての良い学びは意外とそこではなく。
いろんな国のいろんな性格の人と接することで気付かされたのが「もっと堂々としていい」ということ。
私の元々の精神的傾向の中に「気にしちゃう」という癖があります。これは長年自分を苦しめた癖の一つです。
ヨーガを通じてだいぶ改善されたんですけど、ふとしたところで出る。
それだけ根深いということですが。どういう条件で出てしまうのか傾向も分かっているので、そういう時は「また始まった」と気づいてそれ以上強めないように注意深く行動を選択するようにしています。
それで、今回の場合は、初めて手紙を送る時や文章が上手な人に対して、自分の英語力を気にして相手に「私の英語は上手ではないので、もし読みにくかったらごめんなさい」という一文を添えて送っていました。
それは、抽象的な話や複雑な展開の話を書く際に、調べたり翻訳ツールを使っても、後で翻訳してみると変な訳になってしまい、どうしてもこの表現で伝わるのかな?と思ったり、拙い英語で直接的な言い方をしてしまい失礼に当たらないかなど考えて書いたのですが
ある相手から「私もネイティブではないから英語は完全ではない。それでもあなたの言うことは完全に分かっているし、お互いにコミュニケーションは取れている。私はあなたの英語の先生ではないのだから、今後は謝らないで欲しい」というようなことを言われました。
他の人は「私もだよー!」「あなたの英語平気よ」とか、そこまではっきり言いませんでしたけど、この方に具体的に言われたことでちょっとハッとさせられる部分がありました。
なんか謝る必要ないんだな。私の気遣いは日本人的な気遣いだなーと感じたり。そういう気遣いも必要な時もありますけどね。
"完璧に”とか”ちゃんとする”のは誰のため?
ただ、失敗したくない、どう思われるだろうか、よく思われたいなどの気持ちからの気遣いは気遣いじゃないし、不安からの気遣いは要らないということ。
私自身を観察してみると、相手のための割合が多く占めていても、多少は自分の英語力が恥ずかしいとか、どう思われるだろうという気持ちがありました。
でも、何か行動をする際に不完全であってもその時点で一生懸命だったり、誠実であれば良いのだ。自信なさげに行動することの方が相手に失礼だし、何より自分自身に失礼なのだ。
もー、いつから完璧でないといけないと思ったり、それ故に失敗することが恥ずかしいと思うようになってしまったのだろうとか、改めて色々見せられました。
(そういう気づきが生じたら、瞑想で取り上げたり、ヨーガの教えを使って内省&次の行動に活かしたり、祈りに変えています。)
実際に文通相手の数だけ英語の表現も違うし、分かりやすい人もいれば、翻訳使ったり調べてもちょっと意味や意図が分からないなーと思う人もいます。
でも、それぞれ堂々と臆することなく意見を述べているし、不完全な表現でもこっちへの気遣いも感じられる。
相手が自分と同じことをしたとしても、気に留めないし、気にし過ぎないでいいよ!と言うのに、自分のことになると出来ない。
過不足ないように慎んだり、敬意を払うこと、学ぶ姿勢、感謝を忘れずに適切な努力はするけれど、完璧でなくていい。不完全だとしてもいい。もっと堂々としよう。文通でも他の場面でも◎
というように、生活の一場面で心の動きを見たり、改善するように注意深く行動したり、心を磨くヨーガをしています。
TaraYoga オンラインヨガクラス・飯田市
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