媒介する身体ーはじめに その2 SNSの海に溶けてだしていく、こころ
前回は、媒介する身体と言う概念について書いた。
今回は、なぜ私的なこころや、その病についての話を公開するのか。それについて、この回で書いていく。
はじめにが2度も続くのは長いような気もする。でも次回もはじめに、がつづく。それで、はじめには終わりになるので、よかったら懲りずに読んでください。
これを書き始めた当時、まだ、いい病院が見つかっていない時期には、この記録とその公開が、切実なセルフセラピーだと考えていた。今はびっくりするくらい薬が効いているので、その切実さは薄れてはきている。
それでも自分のこころは、もはや自分自身だけの問題でもないという考えは変わらずに残ったので、記録を公開した方がいいとの判断もした。
そこから数ヶ月、色々記録していくうちに、「媒介する身体」という概念がセルフセラピーとして形になってきている気もしている。公開することに意味があるのかはやってみないとわからない。
まずは、うつ病と診断された時の状態と、いくつかの病院の問診の、あやふやさについてのことを書く。
【2022年 某日】
気分が晴れない。落ち込んでいる。普段、夕日や朝日を見ただけで感動できる簡単なやつなのに、それに何も感じない。しかも今回はとても長期的にそれが起きている。とてもヤバいと感じている。
精神科・心療内科に何件か行った。
診断に必要なチェック項目を埋めていく
「死にたい時がある。」
・とてもそう思う。
・どちらかといえばそう。
・どちらでもない。
・どちらかといえばそう思わない。
・全くそう思わない。
「自分は無気力で、生きる価値がないと思っている。」
・とてもそう思う。
・どちらかといえばそう。
・どちらでもない。
・どちらかといえばそう思わない。
・全くそう思わない。
「仕事に行く朝、起きれない時がある」
・とてもそう思う。
・どちらかといえばそう。
・どちらでもない。
・どちらかといえばそう思わない。
・全くそう思わない。
「眠れない日が続く。または過剰に寝てしまう時がある」
・とてもそう思う。
・どちらかといえばそう。
・どちらでもない。
・どちらかといえばそう思わない。
・全くそう思わない。
一通りチェックシートを埋める。そして、「あぁ鬱ですね。とりあえず鬱だったらこの薬、効きますから1ヶ月くらい試してみましょう」と薬をもらう。
2週間後にまた薬をもらいにいく
「どうですか。」
「効果はわからないけれど、今週は調子いいです。」
「じゃあそのまま、続けましょう。なにか質問ありますか?」
「ないです。ありがとうございました。」
診察は2分もかからない
先日、ipadをアップデートしたら、iOSにも病院でチェック項目を埋めたのと似たようなメンタルヘルスのチェックリストが出てきた。試しにチェックしていく。予測どおりの結果となる
「うつ病の可能性が高いです。すぐに専門機関を受診してください。」
ipadがそう教えてくれた。
そして病院に行くと、堂々めぐりのようなチェックシートが待っていて、結果を見た医者が、「うつ病の様ですね」とipadと同じことを伝えてくれるのだ。
違いは、薬が出るか出ないか、それだけなのではないか。そんな疑問はあるが、この社会構造のことに目を向けている場合ではない。まずは自分のことに集中しないといけない。
処方された薬は、セロトニン再取り込み阻害薬(通称SSRI)。1ヶ月続け、効果はよくわからなかった。こころは確かに軽くなったが、それがプラセボかもしれないし、そもそも抑うつ気分にも日々、波があるから、薬の効果か、聞かれると答えは「わからない」としか言えない。
私は、私の心がわからない。けれど、診察は私の申告、私の主観をもとにした判断が下される。なんだかなぁと思い、病院には行かなくなってしまった。(今のクリニックとは全然違う。)
通院を続けていればもっと早く回復していたかもしれないけれど、通うのが億劫だった。医者から得られる、新たな私の身体の情報が何もないので、何を信じればよいのかもわからなかった。
そんなあいまいで、あやふやな時期に、面白い本には少し出会えた。積読していた『〈こころ〉はどこから来てどこへいくのか。』というシンポジウムをまとめた本。
・河合俊雄(心理学者で、父は河合隼雄)
・中沢新一(宗教・思想・人類学、色々書いてる)
・山極寿一(野生ゴリラのフィールドワーク研究者)
など、脳科学系というよりかは、社会、文化人類寄りの登壇で、専門知識がなくても面白く読めた。得に河合俊雄「こころの歴史的内面化とインターフェイス」という講演の箇所がものすごくよかった。以下、引用は全てこの講演記録からのものになる。
時代の変化と共に、こころの在る場所も変わる。
今の時代、個人のこころは、個人のものであるにも関わらず、
・どうもこころは、個人の中に閉じられていないのではないか
・内面の世界と外的現実のインターフェイスする(接続して交流する)側面がある
というのが、河井俊雄の主張であった。まずは、こころの歴史を三つの時代【前近代・近代・現在】に分けて考える。
河合俊雄によると、前近代ではこころは自然やコミュニティ全体に属するものだった。
「前近代のモデルの考え方は(略)、外からの精霊や悪霊が人のこころに入ってくるとみなしており、オープンシステムとしてのこころになっているのです。つまり現在の心理学の前提となっているクローズドシステとは異なり、個人のこころが外に開かれているオープンシステムなのです。(44頁)」
そこで、活躍するのは、ブッシュハンターや除物師たちだ。「精霊や悪霊が人のこころに入ってきた」それを追い出すのが、こころの治療だ。時には祈りやお供えものをささげる。踊り歌う。アワヤスカやペヨーテを用いて、トランスに入りながら、物理的に、嘔吐しながら、入ってきたものを出して行く。
近代になり、意識と無意識の発見から、こころは人の内面におさまりクローズドシステムとなった。治療も個人への投薬、個人の行動の変化を促す認知行動療法などが中心となる。
「個人という考え方ができて初めて心理療法が成立し、外にあったこころは個人の中に位置づけられることになります。(48頁)」
と河合は述べる。そして、現代は進み、今この瞬間のこころは、snsや広告により、クローズドシステムを維持できなくなってきたと言う。
「『ネットワーク化と内面の消失』」といことで、現代と未来のこころを考えてみたらどうなるでしょうか。(62頁)」
ここから続く河合俊雄の講演がとても良かったので、少し長くなるが、以降まとめて引用する。
これを読んだ時、これだ。医者が頼れないのならば(今は頼れる医者を見つけられたが)、ここにあるような、内面の世界と外的現実のインターフェイスする(接続して交流する)側面にフォーカスするために、記録し、公開することが、セラピー的な役目を果たすのではないか。と素人目に考え、そのため用の記録を始めた。
媒介する身体を目指すこと。それを公開すること。これがセットになり、インターフェイス(接続して交流する)場所の中に、自分自身のこころをつくっていく。
どういうシステムで、どういう効果のあるものかはわからないが、河合俊雄が言うような閉じられていない時代ならではのセラピー効果があるといいなと勝手に思っている。
もちろんその逆で毒にもなりうるし、たとえ薬だとしても「摂取量」を間違えれば毒には変わりはないので、その辺は、気をつけなければいけない。というか、その可能性の方が高い気もしている。
(なので、何を接種するのか、しないのか。その辺のことは、ルールを作ったので、次回、そのルールを載せて、「はじめに」の終わりとする。)
勝手に効果を願うなかで、唯一のねらいは、無目的で、偶発的に起きて、つながる。ということだ。
「最初から何かの目的を目指すのではなく、偶発的に起こったり、つながったりすることに意味を見出して行くような心理療法」
媒介する身体は、その実験でもある。
河井俊雄の言っていることは、何かしらベースとなる理論が紹介されているわけでもないし、論文の類でもない。単発のシンポジウムの講演記録で、私がその論拠や参考文献も読まずも、勝手にいいなと思い、始めているだけだ。
だから「これさえ書いていれば、めっちゃ回復して、元気もりもり!!」なんてことは期待はしないし、望んでもいない。ただ、書く。それだけ。というつもりで、続けていけたら良いと思っている。
偶発的なつながりそれがあればいいなとも思うが、一番大切なのは、何かを目指さないで書く、という所だと考えている。
ということで、よかったら、旧Twitter、Blueskyもまとめて始めたので、フォローよろしくお願いします。