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カッコーの巣の上で〜最後の最後で例えようのない感動が心に広がる不朽の名作
『カッコーの巣の上で』(One Flew Over the Cuckoo's Nest/1975年)
最後の最後になって、例えようのない感動が観る者の心に広がる映画がごく稀にある。『カッコーの巣の上で』(One Flew Over the Cuckoo's Nest/1975年)は紛れもなく、そんな体験ができる不朽の名作。
原作となったのは、カウンターカルチャーの旗手の一人、ケン・キージーが1962年に発表した処女長編『郭公の巣』。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(1951)やジョーゼフ・ヘラーの『キャッチ=22』(1961)と並んで、当時の若者たちの3大バイブルの一つと言われたベストセラー小説。
映画化までには、十数年の歳月を要した。俳優のカーク・ダグラスが権利を取得して、1963年に自らが舞台で演じるも芳しくなく、チェコのプラハに赴いた際にミロス・フォアマン監督と出会う。
しかし、この時は実現に至らず、紆余曲折を経て息子のマイケル・ダグラスが映画化を進めることになり、再びフォアマン監督に依頼して遂にスクリーンに蘇った。
この作品で私が描きたかったのは、体制告発でも精神病院の恐怖でもない。人間とその存在の素晴らしさだ。(ミロス・フォアマン)
監督は人間ドラマとしてこの作品を描き貫き、結果的に「アメリカン・ニューシネマ最後の傑作」として映画史に輝くことになる。当然、アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞、主演女優賞を独占。ジャック・ニコルソンは5度目のノミネートで念願のオスカーを獲得した。
撮影場所はオレゴン州の精神病院で行い、100人ほどの患者たちがエキストラ出演して、素晴らしい体験と臨時収入を得たという。素朴ながらも印象的な音楽は、ローリング・ストーンズやニール・ヤングとの仕事でも知られるジャック・ニッチェが担当した。
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(以下、ストーリー含む)
1963年9月、オレゴン州立精神病院。ここでは絶対的な権限を持つラチェッド婦長(ルイーズ・フレッチャー)が、患者たちを薬や規則で管理支配下に置いている。
穏やかな微笑みの奥には、「自分は正しいことをしている」という歪んだ母性が宿っていて、多くの患者たちは弱みにつけ込まれて抑圧されていた。
そんなある日、ランドル・P・マクマーフィー(ジャック・ニコルソン)が病院に収容されてくる。実は彼は、刑務所での強制重労働を逃れるために精神錯乱を装い続けている。
しかし、ディスカッション療法に参加するにつれ、無気力で生気のない仲間たちと病院の実態に疑問を抱き、持ち前の反逆心で体制を揺るがし始める。
リクリエーション用のバスを奪って、ボートに乗って海釣りをするマクマーフィー。引き連れた仲間たちには、病院という権威の中での飼い慣らし状態から抜け出して、大空の下で人間本来の自由と尊厳を謳歌する輝きが確かに戻っていた。
数々の行いの罰として、電気ショック療法を受ける羽目になるマクマーフィー。順番を待つ間、耳が聞こえず喋れないはずの掃除係の大男チーフが、ガムを差し出したマクマーフィーに「ありがとう」と言う。
チーフはネイティヴ・アメリカンの酋長の息子でありながら、自我を殺し続けて、マクマーフィー同様“装っている”ことが分かったのだ。二人は病院を脱走して、カナダへ行くことを約束する。
一方で婦長側は、入院期間をどこまでも延長できる権限をチラつかせて重圧をかけ、反体制のマクマーフィーを潰しにかかる。我慢が限界に達した彼は看護人を買収して、ガールフレンドたちを病院に呼んで、脱走直前のお別れパーティを仲間たちと盛大に開催する。
翌朝、酒に酔い潰れたマクマーフィーが起き上がって目にしたのは、現場にやって来た婦長によって、弱みを徹底的に追い込まれた仲間の自殺した姿だった。怒りのあまり、婦長の首を締めて殺そうとしたマクマーフィーは、取り押さえられ隔離されてしまう。
数日後の深夜。密かにその帰りを待つチーフは、額にロボトミー手術の傷跡が刻まれて、生きる屍となったマクマーフィーと対面する。
誇り高きインディアンとしての心を取り戻していたチーフは、このままでは見せしめにされるだけの友を窒息死させ、友が持ち上げられなかった“あるもの”を全身の力を使って持ち上げ、病院の窓を投げ割って、カナダの大地を求めて羽ばたいて行くのだった……。
人間の代弁者としてのマクマーフィーと、彼によって人間として復活するチーフの姿に、政治家やマスコミの情報操作に踊らされ、巨大企業の消費の的や社畜になり、権力システムに囚われてしまった人々は何を想うのか。
文/中野充浩
参考/『カッコーの巣の上で』パンフレット
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