もっと甘えてよかったんだ (公式に許す、ということ)
今日も会社を休んだ。
朝イチに会社に電話してからはまた明るい日差しを避けて布団に潜り込む。昼前に起きてずっとケータイゲームなんかしてると、なにやってんだ、と、思わないこともない。
思わないこともないけど、クリニックの先生が言った言葉がやっぱり思い出される。
苦しみが浮かぶその先で、先生の言葉のほうに私の真実がどうしてもあるから、やっぱり私はまだ、起き上がれないでいる。
その自分を、居てもいいと、認めることができる。
差し出していた自分を、やっと、わずかながらに否定せずにいられる。
そういう事だと思う。
中学1年生と2年生、2年の9月に転校するまで保健室登校していた時期があったから、そんな気分をあじわっている。クラスのみんなと授業は受けないことを、だれからも責められていない、学校という機関が、公式に許してくれている安心感。
いま、私の心はもうだれも、公に許可をくれることはまずないけど、大人の私が「公式に」許してる。
それは、家にいながら、「誰からも責められていると感じない」ということ。罪悪感のないこと。後ろめたさのないこと。
それが安心。“その”自分を認めるから生まれたもの。ヘタレな自分を、もっと甘えていいんやでって、撫でてやるときに生まれるもの。
そういうことか、と思う。
がんばったら安心な自分になれると思ってたんだけど。
先生の言葉を頼りに、もっと、もっと甘えていいと(ずっと差し出す思いで生きてきたんだと)思ってみると、だれに責められることもないと、わかってくる。会社の人たちみんな、心配してくれてるんだと、思えてくる。ごめんね。ありがとう。
もっと、甘えてよかったんだ。
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