ラーンジャナーでクンダンが求めたもの
現在、IMW2020リターンズでかかっている『ラーンジャナー』の初見後、Twitterでこう呟いた。
鑑賞直後のロビーでは、インド映画沼の民と「クンダンは◯◯◯◯を見つけたんだろうね」という話もした。
クンダンは何を求め、何を見い出したのか。
ぼくなりの受け止め方を綴ってみる。
※以下、ネタバレを含むので未見のかたは、ご注意を。
愛の物語でもあり、◯の物語でもある。
Twitterでは「クンダンは無償の犠牲を成し遂げた殉教者と言えるかもしれない」とも書いた。これ自体、ネタバレぎりぎりだったと反省しきりなのだが、数日経ち、この時に抱いた思いをさらに書いてみようと思う。
結論から書く。
この映画は、間違いなく「愛」の物語だが「死」についての物語でもある。クンダンとゾーヤーの恋物語にばかり囚われてしまうと、この「死にまつわる物語」が見えにくくなる。
つまり、『ラーンジャナー』は「いかに贖罪を遂げるか?」を見い出し、「死をどう捉え、いかに死を迎えるか?」を探求した物語なのだと思う。
だから冒頭伏せ字にした部分はこうなる。
もちろん「逝きかた」と「生きかた」は表裏一体なので「いかに生きるかと、いかに逝くか?」は同じ問いかけとなり、それは「いかに愛するか?」という問いかけに繋がっており、そこも見事に描かれている。
梵我一如
自分がこう受け止めるのは、既述したように「きちんと死ぬために生きる」という、啓示のような閃きが最近訪れたのも大きいが、実は10代から「死」について考察を繰り返し、それが高じてインド哲学を少しかじったからかもしれない。他人事のように書いているが、自分の思考や感情の明快な根拠など本人にも分からないものである。
ヒンドゥー教(厳密にはそのベースとなるヴェーダ)には「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という概念がある。信仰する者にとっては概念というよりも、究極の悟りであり、信仰の最終目的と言うべきだろう。
「梵」とは「ブラフマン」であり、宇宙を支配する原理であり、宇宙の創造主であり、平たく言えば「神」を指す。
「我」とは「アートマン」であり、自我であり、かつて「梵」と一体だった本来の「我」として「真我」とも漢訳され、平たく言えば「わたし」という自意識の根源を意味する。俗に言う「魂」と捉えてもいい。
つまり、ヒンドゥー教における信仰の最終目的は、この梵我一如にあり、神と結合し、一体化することに尽きる。それはもう「我」という概念も存在も無い融合であり、そこには真の解放、Mukti があるとされる。そしてこの結合や融合は、男女の交合にもなぞらえてきた。Lingam と Yoni 然り、Shiva と Shakti 然り。
だから、“死” の物語を男女の愛の物語を通して描く道理がそこにはある。そして、クンダンがバラモン(ヒンドゥー教の僧侶)の家庭で育った若者という設定も偶然ではないはずだ。
ぼくたちは、過ちを犯す。どれだけ善人でも、どれだけ善行を心がけていても、それは避けられない。ましてや、自分のエゴや欲望が肥大化したとき、自制するのは極めて難しい。だからこそ、世界中の「死」と「生」を取り扱う宗教や哲学は「罪」を取り上げる。そして真の解放を得られるよう祈り、穢れなき、罪のない魂、安らかな死を得ようとする。
遺される者にとって「死」は、とても哀しい。自分も父母や愛猫の死をうまく乗り越えられていない。ブッダが四苦八苦を説いたように「生」は苦しみに満ちている。その苦しみゆえに「死」を救いと考え、解放されたいと願う気持ちは痛いほど分かる。
だからこそ親友のムラーリは、死の淵にいるクンダンに告げる。
おそらく、ここまで述べてきたぼくの持論を踏まえなくても、このシーンは、いくつかある号泣ポイントに違いない。
クンダンの罪と解放
クンダンにとってゾーヤーは「神」だった。
ここで「いや、でもゾーヤーは人間だし。しかもかなり酷いやつだし」と言いたくなるのも無理はないが「クンダンにとって……」という文脈では、まさしく「神」だった。
だから、クンダンはゾーヤーに無償の愛を捧げた。ゾーヤーの気まぐれも、素っ気ない振る舞いも、頬を叩かれる痛みも、すべてが悦びとなった。ホーリー祭で色粉を顔に付けてもらうクンダンの表情は、まさしく神に抱かれた喜悦の極みだ。
サンスクリット語に「Lira(リーラ)」という言葉がある。「神の戯れ」という意味だが、まさしく、ゾーヤーを通して神が(その意図は図り知れないし、無邪気かつ無慈悲に見えるけれど)クンダンと戯れているようにも見える。いや、そうみなさないと耐え難い。ましてやクンダンの至福は起こり得ない。
でもその愛は届かない。ゾーヤーとの結婚、神との融合、梵我一如は叶わない。それでもクンダンは、辛苦を神の戯れとして受け入れ、神の歓びを自らの歓びにしようとした。
ところがである。
クンダンは、ゾーヤーと結婚相手アクラムの偽りを許せず、それを暴き、不幸な死を招いてしまう。これをクンダンの罪と言うのは酷な気もするが、神への献身を翻し、その歓びを奪ったのだから、これ以上の罪はないとも言える。同時に献身的な愛を捧げてくれたビンディヤーも深く傷つけてしまう。両親も親友も同様に。まさしく、罪の苦しみと深い悲しみに潰されてしまう。
だからこそ、ジャスジート(アクラムの本名)の死に直面したクンダンは、まさしく贖罪の旅に身を投げた。逃げたとも言えるが、罪を贖う方法を探し求め、彷徨った。その流浪の途中、ガンジス河のほとりで、クンダンはこの言葉に出遭う。
では、その後、クンダンは救われたのだろうか?
死の淵でクンダンが語る最後の独白は、"Bas" で始まる。食事を振る舞ってもらう時、黙っていると、どんどんご飯が追加されてしまう。そんな時にも「もういい」「もうじゅうぶん」「おしまい」という意味で使われる言葉だ。
その独白にクンダンの(つまり、監督の)死への思いが込められている。だから、ここでは、その独白の概要を拙訳で再現するにとどめ、ぼくの受け止め方は綴らないでおく。きっと、その人なりの受け止め方があるに違いないので……。
あぁ、こうして書いていても涙を抑えられない。
いかに愛し、いかに生き、いかに逝くか。
自らの「逝きかた」に思いを馳せ、そのための「生きかた」を熟考し、行動を起こさねばと思う。ぼくにとってのゾーヤーの不在を嘆くべきなのか喜ぶべきなのかは分からないまま……。
追記 ラーイ監督のインタビューから[2020.12.17 15:30]
アーナンド・L・ラーイ監督のインタビューを見つけた。『ZERO』のプロモーションを兼ねているようだが、これまでの監督作品やプロデュース作品について話をしている。もちろん『ラーンジャナー』についても。
ラーイ監督が『ラーンジャナー』について、以下のように語っているのを聴き、思わず膝を叩いた。やはりそうだったのか、と。
この話の前に、ラーイ監督は、映画を作る動機について語っている。簡単にまとめるとこんな感じだろうか。
この流れから『ラーンジャナー』の製作意図や動機について、上述のようなコメントをしている。影響を受けた過去の作品などについても語っているので、興味のある方は、ぜひ聴いてみていただきたい。インド訛りの英語だけど、かなり聴きやすいほうだと思う。
ラーンジャナーについて語っているのは、3分15秒あたりから。