アイデンティティの問題②
前回につづいて「アイデンティティ」のはなしです。
今回は特に「日本人のアイデンティティ」について考えてみます。
アイデンティティとは何か(おさらい)
そもそも「アイデンティティ」の原義は「同一性」でした。
「同一性」とは・・・
あるものが時間・空間を異にしても同じであり続け、変化がみられないこと
(三省堂 大辞林)
ということなので、
「A君のアイデンティティ」
と言った時、それは「どんな時・どんな場所であっても、つねにA君をA君たらしめる”何か”」を指します。
たとえばA君が学生のときでも、社会人のときでも、定年を迎えたときでも、いつも変わらないもの。A君が学校にいるときでも、職場にいるときでも、家庭にいるときでも変わらないもの。朝と夜で変わらないし、正月もお盆もクリスマスでも変わらない。A君が一人でいる時でも、友達といる時でも、取引先といる時でも変わらない。
このようにいかなる時、いかなる場所であっても不変でA君がA君であることを絶対的に担保する”何か”。それが「A君のアイデンティティ」です。
そんなもん、ホントに存在すんの?
と、私たち日本人の感覚からすると思いませんか?🤔
だって、環境が変われば自分の考え方や思考パターンはそれに合わせて変化させていくのは当たり前です。例えば学生の頃の自分と定年を迎える頃の自分を比べれば、それはもはや別の人間かと思うほど世の中のモノの見方や社会への立ち向かい方は異なっているはずです。地元で旧友と会話する時の自分と、家族と会話する時の自分、会社で取引先と会話するときの自分は、自然と切り替わります。だから「いかなる時、いかなる場所でも不変の”自分”」なんて言われても…。「三つ子の魂百まで」っていうくらいだから実はあるのかもしれないけど、イマイチ実感がない…。
そんな感じがするのではないでしょうか。
私たちがそう感じる理由の一つとして、私たち日本人の「アイデンティティ」というものの捉え方が、実は「個人」ではなく「集団」を対象にしているところにポイントがあるんじゃないかと思います。
アイデンティティが個人に付随する
前回の繰り返しになりますが、西洋人(キリスト教圏)では「アイデンティティ」は「個人に付随するもの」と考えます。例えば「私のアイデンティティ」「あなたのアイデンティティ」「彼/彼女のアイデンティティ」といった具合です。
西洋では「神との契約を個別に結んだ結果、今ここにいる」という宗教的世界観に基づく共通認識がお互いにあるので、各自が「(契約に基づく)自分のアイデンティティ」をしっかり自覚します。すると、同時に「相手のアイデンティティ」も尊重する価値観が生まれます。
「個人」に付随するアイデンティティ
アイデンティティが集団に付随する
一方、私たち日本人は「アイデンティティ」を「個人」に付随するものではなく「集団」に付随するものだと考えているのではないでしょうか。
図にするとこんな感じです。
集団のアイデンティティ
つまり、その時々において自分が所属する「集団」のアイデンティティを自分のアイデンティティとして同化する、ということです。
「時と場所によってアイデンティティが変わる」というより「自分を取り巻く他者との関係性に応じて、アイデンティティが切り替わっていく」感じでしょうか。
Why Japanese People?
なぜ私たち日本人は「集団のアイデンティティ」に自分を同化しちゃうのでしょう?
思い返すと、私たちは『集団の中で自己主張すること』に抵抗を感じる事が多いように思います。なぜ抵抗を感じるのか?それは、集団に属しながら「個」を主張することを良しとしない「価値観」を私たち多くの日本人が共通認識として持っているからです。
この「価値観」は「規範意識」や「美意識」と言い換えられるかもしれません。
今から約1,400年前、聖徳太子が制定した十七条の憲法に
和を以て貴しとなす
と書かれていたように「個を主張するよりも、他者との関係性を重視すべき」という「美意識」が日本人のDNAに刻まれました。憲法というくらいなので厳密にいえば「規範」なのですが、これは「美意識」に近い気がします。
この「美意識」が昇華していった結果、鎌倉時代の坂東武者に起源をもつ「武士道」が生まれ、そして「お家」や「お国」の概念に繋がっていったのではないでしょうか。
「武士道」までは「美意識」の流れとしてわかるのですが、そこに封建制度が混じって「君臣の関係」つまり「お家」の概念に広がったことで「美意識」よりも「規範意識」の方が強まった感があります。これがさらに明治維新を経て大正・昭和までいくと「君臣の関係」が「上下関係」になり「集団のためなら個を犠牲にしてもよい」という歪んだ「規範意識」がまかり通ってしまったのではないでしょうか。
「お家を守るため、腹を切る」
「お国のために、戦闘機で軍艦に突っ込む」
こんなこと、集団のアイデンティティに自分を同化させてしまう日本人だからこそできる発想であって、そもそもアイデンティティが個人に付随する西洋人から見れば「なんで集団のためにそこまでやれるの?クレイジーすぎんだろジャパニーズ…😰」と思うことでしょう。
で、どっちがいいのか?
「アイデンティティが個人に付随する」のと「アイデンティティが集団に付随する」のと、どちらが優れているのか?これは両者に優劣はないと思います。
上の方で十把一絡げに「西洋はアイデンティティが個人に付随する」と言ってしまいましたが、当然、西洋にも個人より集団のアイデンティティに重きを置く人はいるはずです。それは日本でも同じで、集団のアイデンティティに馴染めない、違和感を感じる人もたくさんいます。
何が言いたいかというと、どちらも必要であって、どちらか一方しかない世界というのは進歩しない(面白くない)だろうということです。
「Noと言えない日本人」という本がありましたが、私たち日本人は西洋人の強い自己主張と個人主義に憧れ、逆に西洋人は私たち日本人の「ハラキリ」「カミカゼ」のような集団主義に「美」と「恐怖」を感じるわけです。両者が交じることで初めて世界は面白くなる気がします。
でも「希少性」という点で言えば・・
ただ、どっちがレアかといえば、おそらく「アイデンティティが集団に付随する」ほうなんじゃないかなーと思います。
これは想像ですが「アイデンティティが個人に付随する」というのは、やはり一神教宗教の世界観によるところが大きい気がします。世界全体で見れば一神教系の地域の方が圧倒的に多いです。多神教の地域はインドなど日本以外にもありますが、太古の昔より自然の中に神を見出し、自分も他者も八百万の神々も一体となった世界観の中で、周囲との関係性の中から生まれた「アイデンティティが集団に付随する」特性って、日本固有なのでは?という気がします。(「ハラキリ」「カミカゼ」があった国って他にあるのか?)
別に「ハラキリ」「カミカゼ」が良いとか、それ推しでいこう!というつもりは全くないのですが、これらの行動の源泉となった「価値観」、つまり「規範意識」や「美意識」はおそらく貴重なものであって、別の形に昇華すればユニークな価値になるんじゃないかと思います。
次回は日本人の「規範意識」や「美意識」について紹介しようと思います。
つづく。
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