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奇説 今昔物語集 vol.002 -藤原氏列伝(上)-篇

 この物語は平安時代末期に成立したらしいということ以外は、作者もタイトルも明らかになっていない説話集である。『今昔物語集』と呼ばれているのも、その殆どの書き出しが「今は昔」から始まるからという理由で便宜的に名付けられた通称である。
 前回は、大職冠こと藤原鎌足の物語であったが、『今昔物語集 本朝世俗部』は鎌足を発端に、その子孫の物語、すなわち藤原氏列伝からスタートする。

1. 壬申の乱と藤原 不比等

 今昔物語集が記されたのは平安時代末期とされているが、この頃には当然、中国から司馬遷が著した『史記』が輸入されてきている。

 『史記』は大きな歴史の流れである「本紀」と、歴史的事実を連ねた「」(年表)、学びのエッセンスを取り上げた「」、各国の物語を描いた「世家」、そして英雄をクローズアップした「列伝」と五部から成っている。この方式は、長く中国で伝承され、かつ日本にも影響を与えたが、この表現方法は紀伝体と呼ばれ歴史書の中でも漢書と並んで最高傑作という評価をいまだに保っている。

 紀伝体のうちの「」については「古事記」「日本書紀」と日本でも模倣されたが、「」についても今昔物語集の冒頭が藤原氏列伝から始まることを見てもわかるように、その影響から逃れることができなかった。

 今は昔、淡海公と呼ばれる大臣がいた。

 本名は藤原 不比等という。前稿で取り上げた藤原 鎌足の長男で母は天智天皇の后でもあった与志古姫である。

 与志古姫は最初、天智天皇の后であったのが大化の改新の功績に感謝した天皇が鎌足の妻として嫁がせたという。この時、すでに与志古姫は身ごもっており、この子が不比等で天智天皇の落胤であるという説が『大鏡』には記されている。ちなみに先述のとおり、今昔物語集では不比等は鎌足の長男ということになっているが、同じく平安時代の歴史書『大鏡』には、与志古姫が天智天皇の子を孕っていることを知った鎌足が、長男を出家させ定慧上人となったとされており、この説を採るならば藤原 不比等は鎌足の次男ということになる。

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