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ラストサムライ 篇
新撰組の隊士の中で、その剣名を謳われたのはなんといっても「一に永倉、二に沖田、三に斎藤」と称された三名のサムライです。
沖田 総司はご存知の通り、結核を抱えて明治どころか、戊辰戦争前に亡くなってしまいました。
沖田の例を出すまでもなく、明治維新以後も生き延びた者は少ないのですが、その中でも、永倉 新八と斎藤 一の二人は大正4年まで生き、永倉は77歳、斎藤は71歳と、長い人生を全うした希有な存在です。
永倉は、のちに杉村 義衛と改名し、後年は小樽に棲みついたので、その縁もあって漫画『ゴールデンカムイ』には土方 歳三の右腕として登場しています。
この永倉の孫、杉村 道男氏の証言が面白いのです。
晩年の永倉は、非常な映画好きで、孫の道夫氏を連れて、よく活動写真を見にいったといいます。チャップリンのキーストン喜劇や、グリフィスの映画などをみては、
「近藤や土方がこれをみたら、何というだろうか」
と呟いていたといいます。
新撰組、最後の生き残りがチャップリンに感銘を受けているシーンを想像するだに、
「若い頃の攘夷はなんだったんだ」
とある種の感慨があったのかもしれません。
ある日、映画がハケて、入り口が混雑する中を帰ろうとする永倉と道夫氏が、7、8人のヤクザものに囲まれたことがありました。
「じじぃ、邪魔だ、早くしろ」
と小突かれているうちはジッと我慢をしていたらしいのですが、このとき、道夫氏は80歳近いヨボヨボとした祖父がヤクザものに因縁を吹っかけられているのをみて、子供心にハラハラとしていたと言います。
だが、ヤクザものの手が孫である自分にかかりそうになったとき、永倉はその手を取るや地面に転がしました。激高したヤクザものが、
「なんだ、このジジぃ」
と袋だたきにしようとしたとき、永倉は気合いを発し、ヤクザものを睨みつけました。するとヤクザものは突如ふるえだし、青ざめた顔でその場を退散したのだと言います。
帰り道、道夫氏が、
「おじいちゃん、強いね」
と声をかけると、
「あんなやつらは、屁でもねぇ」
と答えたといいます。
さて、もう一人の斎藤 一はというと、維新後は藤田 五郎と名を変え警察官になりました。こちらは漫画『るろうに剣心』に登場します。
新撰組も京都所司代管轄の警察機構でしたから、根っからの警察官だったのかもしれません。
斎藤の逸話は、佐賀出身の昭和の剣豪、山本 忠次郎が遺してくれています。山本は昭和42年まで生きていますから、斎藤のチャップリンといい、この二人が昭和52年生まれのぼくと、そう遠くない時代軸にいたのだということを改めて教えてくれます。
明治時代の末頃、というのは山本談です。この頃、有信館道場(神道無念流)に通っていた山本 忠次郎は、木に吊るした空き缶を竹刀で突く練習をしていたのだそうです。ふと、老人が通りかかり
「昔ずいぶん見ました。神道無念流は恐ろしい流儀です」
などと言いながら、忠次郎の竹刀をサッと奪い取ると、この木に吊るされた缶を突いてみせました。老人は一瞬のうちに突き、缶は揺れることなく貫通したといいます。その後、老人は
「突き技は突く動作よりも引く動作、構えを素早く元になおす動作の方が大切なのだ。なぜなら突きは初太刀でうまくいくことは少ない。私が成功したのはほとんど三の突きでした」
などと語り立ち去ったのだといいます。
山本 忠次郎は驚いて有信館に戻ると師匠の根岸 信五郎に一部始終を話しました。
すると根岸は
「その方はおそらく藤田 五郎先生だろう。非凡な剣を遣われる方だ」
と言いました。根岸は河井 継之助の指揮下で戊辰戦争も戦った勇士ですから、当然、藤田 五郎の正体が斎藤 一であることは知っていただろう、と推測すると、なかなか胸が熱くなる話です。
時代の移り変わりは、いつの世も激しいものですが、この逸話を聞くと、その無常さと、一方での面白さを感じます。現在の生成AIの登場による社会変化は、ビジネスシーンを始めとして色んな影響を与えてはいますが、サムライがいなくなった、という程の文化的変化はまだ(そう遠くはないでしょうが)未来の話のような気もします。
そのときがやって来たとして、ぼくたちはラストサムライとして、永倉や斉藤が遺してくれたお話のように、古き日を写す美しい何かを持ち合わせているのだろうか、と考えると、一抹の寂しさのようなものを感じてなりません。
(了) 2025 vol.052
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