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「徳」とは何か? 篇

 先日の「殿ナイト」で、主催(主催者はいないらしいのでスタッフと語を置き換えるべきか)の方々がしきりに口にしていたのが、

「なんの告知もしていないのに70人も集まった」

ということであった。主催の一人、但野くんチノアソビのヘビーリスナーなので、このことを持って

林田さん、これが(相馬さんの)生来の徳というものでしょうか

と訊いてきたので、ぼくは素直に、嫌味なく「そのとおりだね」と返事をした。

 孔子という概念を発展させて「仁」という言葉を編み出し、『論語』の中で「仁であれ」と言い続けた人だったが、ついに自分で仁とは何かを説明することはしなかった。その後、インドから仏教がやってきてその教義が中国語に翻訳されるとき、サンスクリット語のダルマ(法、真理)と訳され、意味はより広くなった。

 後学に続いたものが「仁・義・礼・智・信」(前漢・董仲舒)など徳目を整備していったが、孔子が定義しなかったものを分解していっても本質に還元することは難しい

 少し、話が散らかったが、何が言いたいのかというと徳とか仁とかというものは、説明できない、ざっくりしたもので良い、ということである。

 孔子は、右手にこのふんわりとした仁を、左手にふんわりとした徳を握りしめて「我、東周を為さんか」(周を建国した文王や武王が徳によって政治を行ったことを指す)とを歩いていったが、ついに仁や徳で国家を治める政治を実現するどころか、政治に関わることさえできなかった

 だが、孔子の弟子たちには首相級の人物が揃っている。その一人が子夏(しか)である。子夏は孔子に

「君子の儒となれ、小人の儒となるなかれ」

と教えられた。これは、天下を正す学者になれ、自分の名誉や成功のために学んではいけないという意味である。『史記』「仲尼弟子列伝」を見ると、

孔子既に没し、子夏、西河に居りて、教授す。魏の文侯の師と為る。其の子、死して、之を哭して明を失う。

孔子の死後、魏の文公の師となり、その子供が死んだときに泣き暮れて失明したとある。春秋時代にあったという超大国が韓・魏・趙の三つに別れてできた国である。つまり、時はもはや戦国時代(キングダムの時代)である。

 仁も礼もへったくれもない、という戦国時代に、儒学を国策に取り入れた文公は傑物と言っていいだろう。見方を変えれば、孔子は孫弟子の文公によって徳治政治を実現したともいえる。

 ある時、韓の国の使者が来て文公にこう言った。

趙に軍を出したいので、兵を貸してください」

 文公は「趙は兄弟の国なので戦争はできません」と言って断った。するとまたある時に、趙の使者が文公のもとにやってきて言った。

「韓を討ちたいので、兵を貸してください」

 文公は「韓は兄弟の国なので戦争はできません」と言って、これも断った。あとで韓と趙の君主は、文公の想いを知って感動し、魏に入朝して拝謁した。要するに、徳の高さによって諸侯をまとめたのである。

 世の中には、「あのイベントは私がやった、あの仕事は私がやった」と自己主張に明け暮れている人が多いが、ぼくなんかが見ると

「嗚呼、仁がないな」

としか思わない。本当に徳が高ければ、自然と人々はその下に集まる。つまり、何もしなくても主催者になれるのである。何だか勘違いしそうな人が出そうなので蛇足で一言だけ付け加えておくと、何もせずに主催者にもなれない人は、自分の仁と徳について、今一度、見直してみた方が良いだろう。

 では一体、それは何なのか?何をすれば良いのか?と問われても答えはないのではあるが、徳を利すると書くものであるから、人を誘って酒を飲んでみるのが良さそうである。

(了)2025. vol.011

  

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