『太陽の門』俳人・長谷川櫂をよむ
毎年、蝉が啼き始める頃になると、自然と思い出されることがある。それは戦争である。私は戦争経験者ではないため、戦争について語る資格はないかもしれない。しかし、代々語り継がれてきた経験を自己の感性をもって照らし、智慧へと昇華させることはそれなりの意義があると考えている。
角川「俳句」七月号の冒頭に、特別作品五十句『太陽の門』が掲載されている。戦争という悲劇への鎮魂が主題である。作者の長谷川櫂氏は俳壇における第一人者といって過言ではない人物であり、格調高く重厚な句風という印象である。
今回は、その特別作品のなかより、いくつかの句を鑑賞していきたい。本稿が平和実現に少しでも寄与できることを願っている。鑑賞内容は、あくまで私個人の感想であるため参考程度にお読みくだされば幸いである。
広島
夏草といふ夏草の沈黙す
太陽がぎらぎらと、大地を焦がさんばかりに照り付けている。夏草の背後にはまた夏草が、己の体を地に鎮めながら茂っている。風にざわめくわけでもなく、まるで時が止まったかのように沈黙している。
夏草という季語を重ねて、その草の様を沈黙と捉えている。様々な種類の草をまとめて夏草と呼び、多くの兵士たち(雑兵)と重なり合う。芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」を思い出す。本句は実景として、漠とした草原がただあるのみという静的なものであるが、戦を「知っている」夏草が動的なる奥行きを生み出している。夏草は沈黙をもって戦争という悲劇を語るのである。それはまるで、戦争経験者が口を閉ざすかの如くである。また、兵士にとって、草むらは「敵」の潜む恐怖そのものである。青々と茂る草の向こう側には、生と死の相克が立ち上がってくる。
風鈴やしんと戦争ありにけり
風鈴の幽き音が聞こえてくる。ふと空を見やれば、しんと戦争だけがそこに広がっていた。
風鈴の音の奥に、戦争をみたというのである。風鈴の背景には、吸い込まれそうな深い青空が広がり、芥子粒のような爆撃機が数多みえてくるようである。この美しい自然のなかに、音のない静かな恐怖が確かにある。中七の「しんと」の措辞が、戦争に巻き込まれた市民の生活を生々しく立ち上がらせている。
技術的な点をいうと、「や」「けり」の併用は一般的によしとはされない。なぜならば、一句のなかで感動の焦点がぼやけるからである。最短詩型わずか五七五音のなかで詠嘆がふたつもあるということである。しかし、本句のような例外はある(名句として知られる中村草田男氏の「降る雪や明治は遠くなりにけり」も同型である)。風鈴の余韻と、しんと戦争があったという感慨が見事に響きあい、かつ音の調べもよいことがわかるだろう。音と無音の対比がお互いを殺しあうことなく、そこはかとない悲しみ、詩情を醸し出している。
被爆樹や枝々へ春ほとばしる
被爆した大樹が聳え立っている。無数に広がる枝先一本一本に生命の鼓動――春の躍動がほとばしっている。
先に挙げた夏草の句と重なるが、樹木も戦争を「知っている」のである。戦争に巻き込まれた無垢な市井のひとり、被爆樹は何を語るのだろうか。下五の「ほとばしる」からは卑屈に堕することなき力強い樹勢が眼前に迫ってくるようである。枝先まで生命の躍動に満ちており、その枝に血潮の流れをも感じはしないだろうか。飛躍すれば、原爆により焦土となった街、市民たちの苦難より立ち上がる姿が鮮明にみえてくる。中七の「春」はまさに命の芽吹く季節であり、人々と自然の気高き意志と響きあっている。
怒りつつ万緑となる大樹あり
強い日差しが大地を照らす。その地にしかと根を下ろす大木は、葉の緑をますます濃く茂らせ―怒りつつ―立っている。
上五「怒りつつ」という極めて力強く直接的な言葉は、季語の「万緑」、下五「大樹あり」の強さとがっしりと連結している。五七五の一句そのものが大樹にみえてくるかのようである。怒るという感情は、『太陽の門』の流れより、戦争に対する怒りであろう。本句の大樹は、前掲句の被爆樹もしくはそれに類するものであると考えられる。作者の思いが――被爆者たちの思いが託されているのである。反戦への強い思いを、「大樹あり」と切れ味鋭く受け止めている芯の通った名句であるといえるだろう。
沖縄
死にきれず夏陽炎となり果てつ
銃弾を浴びた兵士は、死にきれずにその体を地に伏し、息は途絶えんばかりである。血の滲む汗が首もとへ流れ、夥しい数の蝿が羽音を立てている。見渡せば死屍累々たる光景である。じりじりと焼け付く暑さに大気までゆらめいている。嗚呼、犠牲者たちの命は陽炎となり消えていったのだ。
陽炎は地面から立ちのぼる蒸気で空気が乱れ、風景やものが揺らめいて見えることである(きごさい歳時記より)。春の季語と定義されている。本句の要諦は、生と死を夏陽炎が媒介している点にある。科学的視座に立てば、瀕死の負傷者が陽炎になることはないのだが、この飛躍が、戦没者たちの未練、苦痛を尊厳あるものにしている詩情の核である。生類がその生を終えたとき、土へ還ってゆくように、魂は陽炎となり天へ昇ってゆくのだろうか。果てのない空や海までも立ち上がってくる。その深い碧に、戦争という歴史の重さが通底しているようであり、死にきれない魂が鎮まることを願うばかりである。