#まだ下書き
「五月病」とか言いたくない
最近、頭の中で思うことはたくさんあったのだけどなんか上手に文章にできなかった。
音楽も本も映画も好きだけど、最近は全く触れてなかった。触れる気にもならなかった。
気が付いたら、蓋がされていてその蓋が開けたくても開けられない感じが続いていた。
でも、偶然読んだ文章がゆっくり僕の心の上の漬物石をずらしてくれた。
その文章については、また今度話すね
'福島は〜' 「?」
福島に帰ってきて、約1年。
福島の街にもだいぶ友達や知り合いが増えてきて、一緒に楽しいことしようよ!遊ぼうよ!って話してくれる仲間と福島について考えることが増えてきた。
そんな中で、よく聞く言葉がある。
「福島には、なにもない」
「福島の人は、協力し合わない」
「福島は、やっている人がいつも一緒」
福島に帰ってきて、まだ1年しか経っていないけれど、それなりに多くの人と会って話したつもりだ。
'福島は〜'って話は、聞いただけではなく体感したこともあったし、'あー、そうだよな'って思うこともあった。
そして、気が付いたら自分も'福島は〜'と話すようになっていた。
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でも、この間沖縄に行った時に気が付いた。'福島は〜'って話は福島だけの問題じゃなかったんだって
今、沖縄で沖縄の街を盛り上げようとしている人たちも同じような話をしていた。
地方の問題って、意外と根本は同じなのかな?
なんで、'福島は〜'って言ってしまうんだろう?
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僕がまだ福島の事情や実際を知らないだけなのかもしれない!
だから、もしかしたら全然畑違いなことを今から話すことになるかもしれないし夢物語なのかもしれないけど
'福島は〜'についてこう思う
「福島の人は、協力し合わない」
→
一緒にやろうとした?お互いが協力できることあるか考えた?
「福島は、やっている人がいつも一緒」
→
参加したいと手上げた?向こう側から声が掛かるのを待っているだけで、人任せになっているんじゃないか?
って。
実は、'福島は〜'って話す人は何もしていないんじゃないか?それかもっとできることがあるのはわかっていても’面倒’になっているだけなのではないか?
でも、’面倒’だからってなにもやらない人が’福島は~’というのはなんか違う気がする。
大人な人ってどんな人?
僕は、人が上手に交わるためには少しの優しさと思いやりが大事だと思う。
優しくしてもらえたら嬉しいし、嫌悪な態度取られたら嫌いになってしまう。誰だってそうじゃない?
自分が優しくされたいなら、自分が先に優しくするべきだと思う。そして、それが自分への優しさになると思う。
もし、その優しさを受け止めてもらえなかった時は、僕は心の中で「小学生からやり直して心のノート読んどけって」思ってその人から離れてしまうかもしれないけど
その時は、その時でまた考えよう。
余裕がなくなると、人は優しくできなくなるのなんでかな?悲しいけど、わからなくもない。
そんな時は、キャラメル食べて紅茶を飲もう。人は甘いもの食べて温かいもの飲めば元気になるのだから