無茶振りと希望の「旧開智学校」
「なんだこの建物?」と
読みに来ていただいた貴方!
ありがとうございます😊ようこそ!
変わった建物ですよね?
和風のようで西洋風のようで
でも和風で、、、と違和感だらけの建物だと思いますが
この建物があるのは学びの都「学都」と言われる長野県松本市。
その名も「旧開智学校」
この学校から学びの都は始まったと言っても過言ではありません!
ではその理由を紐解いていきましょう!
「旧開智学校」ができるまで
明治政府「学校をつくれ!」
明治5年、欧米列強国に追いつくために
基礎教育を重視した明治政府は
小学校の設立と普及を発令しました。
そして当時、筑摩県(松本、飯田、飛騨高山を含めた地域)
の権令(知事)であった
永山盛輝は教育を県の指針とし
どこにも負けない日本一の学校を創ることを決意したのです!
無茶振りにもほどがある
この頃、東京や横浜には西洋館が増えつつあり
新時代の建物として注目を集めていました。
どこにも負けない学校をと掲げた永山盛輝も
新しい時代の学校として西洋館の校舎にしたい!と考えます。
が、しかし
日本人が本格的な西洋館を造りはじめるのは
明治10年にイギリス人のジョサイア・コンドルが
西洋建築を教えるために来日してからなので
この時点では西洋館を造れる人はいません!
なのに校舎の建設を請け負うことになったのは
地元の大工棟梁だった立石清重。
「いや、大工ならなんでも建てれると思うなよ!」
と心の声が聞こえてきそうな無茶振りでした。
「でも県令から建てて言われてるし、建てなしゃあないやん。」
と言うことで立石清重はどうしたかと言うと
西洋館がある東京や横浜に見に行き
見てきた西洋館を真似て
明治9年にこの旧開智学校を建てたのです!
「擬洋風建築」は面白い
この旧開智学校のように
大工さんたちが見よう見まねで建てた西洋風の建物を
「擬洋風建築」と言います!
全国各地で建てられるのですが
明治20年を過ぎた頃になると
東京駅を設計した辰野金吾などの西洋建築を学んだ建築家の登場により
だんだん少なくなっていきます。
では擬洋風建築の独特なデザインを見ていきましょう!
受け継がれる希望。そして国宝へ
この松本市に行ったのは何年か前なのですが
駅近くの商業施設の中に20席くらいのフードコートがあって
その光景が今だに印象に残っていて
なにかと言うと
ほぼ全席で学生が勉強してたんですよ😳
私の地元でもフードコートで勉強する学生は見かけますが
居ても2、3組くらいなので
驚きの光景でした!
さすが学都と言われるだけあるな。と納得。
旧開智学校は建設費が約1万1千円
現在の紙幣価値だと約2億円!!
その約7割が地元町民の寄付だったそうです😳
それまで子供は労働力とされてきた歴史を考えると
学校を創って通わせることは
大きな決断だし
この先教育が世の中を変えてくれるという
新しい時代への希望だったのかもしれない。
それが今も受け継がれているから
あの時、町民のした選択は間違っていなかったのだと思う。
そして昭和38年まで使われた校舎は2019年に
文化史的意義が特に深いと国宝に指定されました👏
新時代にむけた町民の希望と無茶振りされて建てた苦労に想いを馳せてみてはいかがですか?
Information
残念ながら現在は耐震工事中だそうです😅
再開したらぜひ訪れて見てください!
ここまで読んでいただきありがとうございました😊
また次の記事も読んでもらえると嬉しすぎて鼻血出すかもしれません!
それでは👋