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茶道家と剣道馬鹿の会話

友人Tは裏千家30年ちょいの茶道家。
夜、僕のいるラウンジに来てゆっくりと話をする。
女性と話すのも慣れていて、
程のいいあしらい方、
不快にさせない素振り、
実に『美しい』『綺麗』が似合う50代のお兄さん。イメージが湧きやすいように、似ている知名人としてはディーン藤岡さんから芸能人オーラを抜いたような。

Tは知人は多いが友人が少ない。
僕も同じ。

ありのままで在る事ができる、
この非常に高い条件をクリアする人間が少ないからだ。

僕らが上から目線で言っているのではない。

ありのままで在る、事の難しさを語れる人が自分達の語りたい、感じたい、共有できる狭い世界の条件の中で、見出す事が毎回のように互いを『観る』事で『学び』と『実り』の至高の充実感に達するか達さないかの、言わば変人探しみたいなもので。

人が見れば『蘊蓄くさい』とか『裏の裏側の話で頭が痛くなる』とか『気軽さがない』とか…
思う人もいるらしい。
が、僕らは変人らしい括りの人間には気にも留めないもので在る。

プライベートだからこそ、自分の『ありのまま』を見つめられる非常に贅沢なボイドタイムみたいな感じ。
仕事や責務があれば、僕らは『其の』在り方にスイッチを切り替える。
本来ならそれは『ありのまま』の生き方では無いのは承知だが、僕ら変人は自分に都合の良い『ありのまま』をプライベートで『気』を抜く有様を求める。

先日、Tと語った事は、
『残心』についてだった。

茶道にも剣道にも、残心は美学である。
お手前が終わる時、
試合が終わる時、
『今』の自分は何を思うだろうか?

『稽古』と『レッスン』の違い、
稽古の度に感じる僅かな積み重ねが『今』に繋がること。

人も物も何一つとして写り変わらないものはない。
ただ在るだけでも、息をしない動植鉱物はない。
『呼吸』は命であること。


僕らの会話を聞いている周りの方々は、頭の良い人達の会話にうつったらしい。
僕らはそれを聞いて自分達の未熟さを知り、2人で茶室にて語ろうと、近々の約束をする。

僕は彼がとても好きで、
彼が僕を好きでいてくれている事も知っている。

互いに独身同士だから分かる事。
歳を重ねていると分かる数々の刹那は、歳を重ねた経験値という御褒美。


学び、語れる、至高の相手は
自らの道を探究し合う同志である。
愛しき戦友のようにも思える『道』の友は、時に恋愛や家族愛にも似た高揚した『瞬間』をくれる。

今日の一歩を、どのように生き、道にするか。


僕らは又会える時に『ありのまま』を感じるだろう。
生きている事に、同じ時代を共有出来る喜びを『当たり前』の安心感と高揚感の中毒に感謝しながら。


結構な、お手前で。


いつか、流れのある親父達になりたいねと語る。


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