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褐色細胞腫闘病記 第37回「夢の中の夢」

「旦那さんが亡くなってまだ3カ月ですか…あの、失礼ですがもう少し休まれたほうがよろしいのではないですか?」
「いえ、働かないといけないんです。私、ここで働きたいんです。大丈夫です」


そこは、小さな建設会社。
「みしま建設株式会社」と白い看板が立っている。
苗字と同じという理由だけで、私はあてもなくその会社に面談を申し込んだ。
ピアノの仕事にも復帰することに決め、募集のチラシを撒いた。だが、そんなに一気に生徒が集まるわけはない。
それに、姪っ子にと手放したピアノを、今更返してとも言えない。
まずは商売道具のピアノを買わなくてはならない。

夫はサラ金と知人に合わせて600万ほど借りていた。
知り合いが債務整理の方法を教えてくれて弁護士を頼って少しは減ったが、それでも私にとってはとんでもない額だった。
妻に債務の義務はないとも言われたが、お世話になった方への借金をそのままにしておくわけにはいかない。
夫の姉に少しでも助けてほしいと申し出たが、義姉は私を憎み、一切の音信を絶った。私は追わなかった。
実家への引っ越し代や諸々を支払ったら、もう手元の貯金は殆どなくなった。
でも私は、金銭面では誰も頼れなかったし、一切誰にも頼りたくなかった。

夜はまだいい。
夜は、強い薬でなんとか眠りをかき集められる。
通常の倍の安定剤と睡眠剤を無心で口に放り込み、睡眠という名の陥穽にぐいぐいと無理矢理自分を堕としこむ。こうして堕としこみさえすれば、朝まで何も考えずに済む。見ないで済む。

だが、毎晩毎夜、私はどうしようもない悪夢を見る。
本当にそれは、怒りが湧くほどどうしようもないものだ。
絶叫して何度も起きる。
震える手でもう一度眠剤を飲む。
肝臓に負担がかかるのは百も承知だ。

第一発見者が野乃子でなくて本当によかった。
野乃子には急病で亡くなったことにしようと、親戚中で取り決めた。
とても本当のことは言えなかった。
せめて、優しい父親像だけを抱いていてほしい、それだけだった。

私の瞼の裏の、消えないおぞましい残滓。
刻まれるその様は、目を閉じても、目を開けても、白昼夢のように私を襲う。
昼間の光が怖かった。白い光の向こうには、必ず何かが見えるからだ。
記憶が長く続かなく、前後し、いつの間にか3日進んでいた、ということもあり、今でもその当時の記憶はかなり混乱し混濁している。

それでも不思議と就職した建設会社で仕事はは完璧こなしていた。
それはそれで異常だったが、誰にも何も知られたくなくて、笑顔の仮面を強力な接着剤で貼りつけた。
それは家にいる時も同じだった。私は野乃子の前では悲しい顔を一切見せなかった。
だが、それは同時に、野乃子の感情をも閉塞させることになることに気付かないまま。でも当時の私には、そうすることしかできなかった。それ以外に考えつかなかった。

さっき淹れたコーヒーカップの在処がわからない。
さっきかけた電話の内容が思い出せない。
短期記憶障害がますますひどくなり、私はかつて通っていた精神科医にトラウマやPTSDに明るい医師を紹介してもらって通うようになった。
でも、話を聞いてもらったとて、薬を何錠処方されたとて、苦しみが減るわけではない。何も変わらなかった。
体の震えと毎夜の悪夢は止まらなかった。

私は、これほどの痛苦を味わうほど、いったいなにか罪を犯したのだろうか。

いや、犯したに違いない。

これほどつらいのだから、すごく、とても悪いことをしたに違いない。

そんな思考がぐるぐるぐるぐる、毎秒止められず。<自責の念>などという生易しい言葉では括れない責めを、私は自分に毎日毎日浴びせた。

車を運転していると、道の脇に黄黒の縞模様のロープのゴミが落ちている。
私は固まる。いや、幻覚だ。落ちてなどいない。ふと、息が止まる気がする。息ができない。私は必死で吸うが空気が周りに無い。吸えない。どうしよう死んでしまう。パニックになった私は、事故だけは避けようとハザードを焚いて路肩に車を停める。
そんなことの繰り返し。繰り返し。繰り返し。

フラッシュバックの波に呑まれると自分ではどうしようもできず、ただ時間が過ぎるのを待つしかない。
つらい、という形容など生易しかった。
「どうして生きなければならないんだろう」と思うことが増えた。
何も知らない野乃子が私に笑いかける。
自分だって父親を急に亡くして泣きたいはずなのに、野乃子は一度しか私の目の前では泣いていない。それは、私が悲しむからだ。
実家の母は持ち前の明るさと鷹揚さで野乃子を包んでくれる。
だから、みんな頑張ってるから、私も頑張らないといけない、と思う。

だけど、私は今までも頑張って来たんじゃなかったか?

これ以上、何を頑張ればこの痛苦が取り除けるというの?

フラッシュバックに襲われては固まり、吐き、震え、薬で強制的に眠りに堕とす。その毎日。
でも、生きなければならない。私には野乃子がいる。
恩義がある方々に、借金を返さないといけない。

私は夢の中でも夢を見る。
夢の中の夢もまたどうしようもないもので、私は二重に恐怖の渦に巻き込まれ、搦(から)めとられ、意識をなくす。
ああ、もう壊れてしまうかもしれない、と思いながら、昼間は笑顔で仕事をする。

いつまでこの地獄が続くのだろう。いつになったら私は、瞼の裏のおぞましい刻印を消し去ることが出来るのだろう。
仏壇も作れないまま、線香のひとつもあげられないまま、私の日々は過ぎていった。


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三島 こうこ
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