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山本小鉄さんのご命日なので、聴いて欲しい。

山本小鉄さんとは、上智大学でクラスメイトだった。社会人講座でのことだ。2008年~2010年の話。

私は、2019年に上智大学がその社会人講座事業を修了するまで通い続けたが、小鉄さんは、2010年の夏、7月のクラス受講が最後となった。「10月~の秋講座でまた逢いましょうね!」といって別れた7月の飲み会の場がお会いした最後になったからだ。

2010年9月に、私の勤務先で小鉄さんは講演をしてくださることになっていた。7月の最終クラス後の上記の飲み会がお開きとなり、みんなで四ツ谷駅に向かって歩いている途中で交わした約束。電話番号も教えていただき、8月には緊張しつつ小鉄さんの携帯に電話して、講演日時も決めた。

「田中さんの同僚にこじんまりと勉強会するんでしょ。ギャラなんかいらないよ」
とおっしゃり、それではあまりに申し訳ないので、勉強会後に皆で、ビールを飲みに行きましょう、という約束もしていた。小鉄さんは大のビール党なのだ。

プロレス好きの同僚、60代になって大学に通っている学び手としての小鉄さんに関心が高い同僚、10数人がその勉強会に申し込んでくれ、会場も用意して、その日を待っていた。

8月末に突然の訃報。まずは、ネットのニュースで知った。
その後、クラスメイト同士でメールの連絡が飛び交い、事実だと理解した。

葬儀には、教授とクラスメイトと共に伺った。その日は、私の勤務先で小鉄さんが講演をしてくださる予定の日だった。

奥様ミツ子さんがその後、クラスメイトになり、私たちは、小鉄さんと同様、ミツ子さんとも仲良しになった。

そんなミツ子さんが、葬儀からしばらく経って、
「主人は、淳子さんと何かお約束していたんでしょ?ごめんなさいね」
とおっしゃった。

「そんなこと・・・大したことじゃなくて・・」

皆、みんな、悲しくて、寂しくて、そして、毎年、この命日にそっと小鉄さんを偲ぶ。

本当に素敵な人だった。

プロレスという私にとっては異世界から来られた方だが、教室では、いつも姿勢よく静かに座っていらっしゃって、ノートを熱心に取っていて、私なんかしない予習や復習もなさっていたそうだ。

偉ぶらず、誰に対してもフラットに接し、当時60代後半の年齢なのだけれど、新しい考えをお持ちで、さすが世界で活躍した方は違うな、といつも勉強になった。

8月28日。今年も小鉄さんの命日がやってきた。

私が接した小鉄さんについて熱く語った放送回、多くの昭和世代に響いたと後で沢山の感想を頂戴した。是非、お聴きください。


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