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冲方丁「光圀伝 下」読書感想文
下巻は、27歳からはじまる。
駆け足気味で、青年から晩年までの光圀像が描かれる。
70歳のときに『大日本史』の草稿が完成する。
ここまでに40年を要している。
後に影響を与えた大書だと十分にわかった読書だった。
巻末の解説は筒井康隆となる。
この『光圀伝』を絶賛している。
冲方丁は、徳川光圀の伝記資料を実によく研究しているとのこと。
伝記資料とは、以下が挙げられている。
『桃源遺事』
『義公行実』
『義公遺事』
『玄桐筆記』
『西山遺聞』
聞いたこともない資料ばかり。
こんなにもあるのかと、はじめて知った。
あとは文学性うんぬんという解説が続くが、そのあたりは残念なことに飲み込めなかった。
水戸黄門は戦前からあった
この筒井康隆の解説ではじめて知ったのが、水戸黄門が全国を旅する『漫遊記』は、昭和の戦前からあったということ。
以外に古い。
人気俳優が出演する映画にもなっている。
テレビドラマの『水戸黄門』は、戦前からの漫遊記をほぼ踏襲している。
実像とはどんどんと遠ざかっていっている、と筒井康隆は不満そうである。
それもあって『光圀伝』を絶賛している。
たしかに。
なにがどうなって、全国行脚して印籠をかざすようになっちゃったのか?
よくわからないけど、それも合わせて『大日本史』を読まなくてはいけないなとの課題が残った。
あと以外だったことが1点ある。
この『光圀伝』は、山田風太郎賞を受賞した。
そのとき、選考委員をしている筒井康隆は、精読しないまま1票を投じたと明かしている。
作者の受賞歴から判断したとのこと。
ああいった賞は、しっかりと読んだ上で考え抜いての1票かと思っていた。
必ずしも読んで選考しているのではないのだなと、あちこちで以外だった。
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初出:単行本 2012年発刊
解説:筒井康隆
ネタバレあらすじ
水戸藩2代目藩主へ
1651年に、3代目将軍の家光が死去。
4代目将軍となった家綱は、まだ10歳だった。
光圀は、幕政への発言も増えていく。
1657年には、明暦の大火がおこった。
死者10万人。
江戸の6割が消失。
29歳の光圀は、先頭に立って大火の市中を動いて対応にあたる。
江戸城の天守閣も焼け落ちた。
しかし、江戸城の天守閣は再建されることはなかった。
必要がなくなったのだ。
武断から文治へと、政治は転換したのだった。
30歳のときに、史書の編纂にとりかかる。
朝廷から依頼された作詩では「名士」という最上の評価も受けたりもする。
水戸藩2代目藩主となってからは、史書の編纂を藩の事業とするなどして文化を推し進める。
・・・ 明暦の大火を境にして、いわゆる “ ひと皮むけた ” 感がある光圀だ。
保科正之、酒井忠清、松平信綱、そこに光圀も加わり幕府の体制が磐石になっていく様子が描かれる。
江戸時代のこの頃も、派手さはないけど少しおもしろそうだなという印象が残った。
光圀を名乗り水戸で隠居へ
光圀は52歳となる。
藩政では挫折も経験した。
決してよい藩政とはいえなかった。
妻の秦姫も、すでに亡くなっている。
父母も親しい友人も亡くなっていた。
何人かの家臣も亡くなっていたが、若手が成長して、世代交代を感じるようにもなる。
跡継ぎと定めた綱條(つなえだ)も立派に成長。
縁談も取りまとめられた。
大きな役目を果たしたような気分でいるのを自覚する。
目指していた文事の天下も、良き藩政も、ますます遠く感じるが、今はなんの焦りもない。
託すことを、いつの間にか受け入れていた。
そんな思いを、師としている朱舜水に吐露したときだった。
「隠居後の名前を今から考えるとよいでしょう」と教えを示される。
いくつかの名を考えたのだけど、これぞという気持ちになれない。
やがて、ふと心に浮かび上がってきたのが『光圀』という名前だった。
唐の女帝の武則天が命じて、考案させた則天文字になる。
“ 國 ” という字は “ 惑 ” の字が “ 乱 ” にも通じるため、八方の字に変えさせたという。
「不惑の名か」と口に出してつぶやく。
57歳のときに、その名を公式に使いはじめた。
ようやく心が不惑を覚悟した、そんな確信があった。
63歳となった光圀は隠居をきめる。
水戸藩3代目藩主には、徳川綱條(つなえだ)が封じられた。
養子にした、兄の頼重の実子である。
「大義だ」と「義公」だと称されることとなる。
儒教では序列を重んじることを社会秩序とする。
それを自ら実践したのだった。
隠居となり、江戸を離れて水戸で過ごす光圀には、将軍の綱吉から権中納言の官位が贈られた。
中納言の別称は “ 黄門 ” である。
“ 水戸黄門 ” と呼ばれるようになった。
上巻の冒頭から持ちこされた謎
67歳となったときだ。
家臣の藤井紋太夫を手打ちにする。
30年にわたり仕えた有能な家臣だった。
日本史の編纂事業にも関わっていた。
が、藤井は独断で、別の藩に対して工作を行っていたのだ。
すべては、水戸家から将軍を輩出するためだった。
「水戸家から将軍が出た暁には、将軍自ら朝廷に政治を還すのです」と、それが大儀だと藤井は譲らない。
光圀は絶句して何も話せない。
それ以上は聞きたくない。
沈黙に畳みかけるように、藤井は自身の大義を主張し続けて、やがて “ 大政奉還 ” を唱えた。
光圀は、ふいに恐怖に襲われる。
その声には、まぎれもない盲信とも狂信ともいえる響きがある。
藤井の襟をつかんで引き寄せたのは突然だった。
「大義のために流される血であれば、まさに正義」と敷き伏せて、脇差を抜き放ち刺したのだった。
・・・ この手打ちが、上巻の冒頭につながる。
お互いの大儀がぶつかってのことになるが、光圀のほうも大義のあり方について「なぜ?」を投げかけていく。
答えはわからないまま終わるのだけど、すでに幕末の徳川慶喜の登場と、その後の大政奉還が見て取れるようだった。
ラスト
70歳となった。
30歳から開始した修史事業は、40年をかけてひとつの大きな節目を迎えた。
草稿が完成したのだ。
『本朝史記』と名付けられた。
これは後に、徳川綱條によって『大日本史』と新たに命名される。
以後、水戸藩では、200年余り幕末にかけて編纂事業が継続されていく。
73歳となった光圀は病気となる。
やがて歩行もできなくなり、寝たきりとなる。
ふと目を覚ました光圀は、側で看護をしていた左近局に「・・・膝を、よいかな」と聞く。
そして柔らかな膝の上に頭を乗せると、ゆったりと体の力を抜いた。
命が、その身から抜けていくのがわかった。
史書は人に何を与えてくれるのか?
その問いに対する答えは、いつの世も変わらず同じである。
突き詰めれば、史書が人に与えるものは、ただ、ひとつしかない。
それは歴史の後には、いったい何が来るのかと問うてみればおのずとわかることだ。
人の生である。
連綿と続く、我々ひとりひとりの人生である。
・・・ と『光圀伝』は終わる。