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開高健「ベトナム戦記」読書感想文

2冊目の開高健になる。
1冊目は、未決囚のときに読んだ自伝風の本だった。

その本の題名は、どうしても思い出せない。
が、戦争体験が書いてあった。

1930年(昭和5年)生まれの開高健は、10代前半に戦争体験をしている。
で、それがまた、えらく冷ややかに書いてあった。

それによると、戦争中は釣りが禁止になっていた。
のんびりしたように見えて不謹慎だというが、禁止にしたところで意味があるのかと、注意してきた年寄りを小バカにしていた。

空襲にも遭ったが、それまで必死にやっていた消火訓練などクソの役にも立たなかったとか。
いや、クソとはいってないが、そのくらいの勢いだ。

終戦の日は、皆はよろこんでいたとか、大人だってなんの感慨も浮かべてなかったなど挙げていた。

で、いちばん恐怖を感じたのは、終戦後のヤミ市。
道端で復員兵が餓死していたこと。

結局は、鬼畜米英なんていったって、アメリカ人やイギリス人の姿など見ることなく、ただ飛行機がきて爆弾を落としていくだけ。
人間が攻撃している実感などない。

そんなことよりも、大人でも餓死する社会をリアルに目にしたことが、戦争体験の中でいちばんの恐怖だったという。

1冊目から開高健が大好きになった。
だいぶ穿って見ている気もするけど。

で、そんな人が、ベトナムで何を見たのだろう?
ベトナムの戦場で、なにを感じたのだろう?

※ 筆者註 ・・・ 以下、ちょっと長めになってしまったのです。削除したのですが、それでも長くなってしましました。それほど濃い1冊だったのです。


本書の内容

ベトナム戦争が過熱していた1960年代前半。
開口健は、南ベトナムに100日間滞在して取材する。
当時34歳。
妻子もいる。

カメラマンも同行している。
作中には、42枚の写真も収められている。

読み進めるうちに、ベトコンについて大きな勘違いをしていたのが十分にわかってくる。

もちろん、ベトコンの意味はわかる。
ベトコンとは、北ベトナムの共産主義者の兵士。
南ベトナムへゲリラ攻撃をしかけていた。

今までは、ベトコンとは、共産主義への共鳴があってゲリラ活動に参加したと思っていた。

で、イメージとしては。
北ベトナムが共産主義者の無法者の集まり。
南ベトナムが善良な政府。

いってみれば被害者的な立場で南ベトナムが敗北したのかと思っていた。
が、どうやらちがう。

南ベトナム政府は、そうとうに腐っていた。
なるようにして、サイゴンは陥落した。
それがわかった本だった。

文庫|1990年発刊|300ページ|朝日新聞出版

写真:秋元啓一

解説:日野啓三

初出:1964年~ 『週刊朝日』連載

サイゴンの日常

南ベトナムの首都のサイゴンでは、ひっきりなしに4つの出来事が繰り返されていた。
クーデター、デモ、テロ、デマの4つ。

クーデターは、16ヶ月の間に10回起きている。
軍の将軍たちは、権力の掌握に忙しい。

デモは激しい。
小さな子供から年寄りまで参加する。
そして完全武装した部隊がやってきては、鎮圧するために人々に催涙弾と銃を放つ。

テロは、ビルひとつが吹き飛ぶ。
なにかが爆発したくらいでは、誰も野次馬などしてない。

デマは、本当のところはわからないが、何かしゃべればひとつは当たるのが不思議だ。

それでも大半の人々は、やさしく、おだやかに、貧しく、いそがしく働いている。

毎日、3時間だけは戦争がない。
正午からの昼寝の時間だ。

アメリカ軍基地でも、ベトコンも、会社や官庁や銀行だって、ひとり残らず昼寝をするからだ。

農民の窮状

メコン・デルタは、地平線の果てまで水田が海のように広がっている。

土は肥えていて、肥料をやらなくても稲が育つ。
三毛作も可能なほど。
何千年と、この広大な三角州はそうだった。

が、農民は、ひたすら貧しい。
貧しいといっても、しっかりと働いている。

ないといったら本当になにもない。
床板すらない。
デコボコの洗面器があるくらい。

空にまでとけこむ水田の豊穣さと、土にとけこむ貧しさの対照は異様なものである。

いかに為政者に、すさまじい収奪をされてきたかだった。

アメリカは、南ベトナム政府に援助するだけ。
が、ベトコンは、農村に入って一緒に暮らす。
このままでは、いずれ農民はベトコンとなる。

大学教授は、そうベトナムの複雑さを指摘する。

すると、どどどどどっと炸裂音が響き渡って地面が震えた。
爆発がおきたのだ。

傍らの夫人は話をとめて、お菓子をつまんで、チラリと窓の外に目をやって「地雷ですわ」と一言いっただけだった。

サイゴンの夜

サイゴンは、悲しく、軽薄で、罪深い都市である。

郊外のジャングルと水田では死闘が行われているが、毎晩、ナイトクラブやキャバレーでは、楽隊入りのどんちゃん騒ぎである。

将軍たちは権力をほしがる。
政治家は金力を貪る。
彼らは、すべての財産は海外に移している。

そのカネはどこからくるのか?

戦争からくる。
戦争がカネを生んでいる。

戦争がある限り、アメリカがドルを注ぎ込む。
1日200万ドルが投入されているのだ。

どんちゃん騒ぎしている者たちは、戦争が続けば続くほど利得があるのだった。

「チョーヨーイだな」
「チョーヨーイだね」

開高健とカメラマンは、そう言葉を交わす。
これくらい、今のベトナム人の気持ちを表す言葉はない。

すべてが、この一語にこもっている。

絶望、憎悪、舌うち、呪い、悲痛、すべて言葉ならないままに口の中に押し戻された一言が、この吐息まじりの “ チョーヨーイ ” となるのである。

ホテルのレストランでは、ベトナム人の金持ち連中が太鼓腹をそり返して、食事をしていた。
着飾った息子や娘を、満足そうに見やっている。

金のあるものは、大学入学資格をパスして、パリかニューヨークに逃げるのだろう。

戦争などは、貧しい者たちにさせておけばいいのだ・・・。

キル・レイト

英字新聞を広げると、株式相場表みたいになっている。
戦闘と大量の死が記載されている。

戦争につきものの、英雄賛美のロマンティシズムなど爪の垢ほどもない。

今週は先週に比べて、死者が何パーセント減、武器喪失が何パーセント増、行方不明者が何パーセント増といった具合である。

計算機の唸りがあるばかり。
Kill Raito(殺戮比)という言葉が使われている。

・・・ “ キル・レイト ” を久しぶりに目にした。
開高健はキル・レイトを、この国の堕落として書くに留まっているが、後年に明かされた詳細を以下で補足したい。

キル・レイトは、当時のアメリカのマクナマラ国防長官が発案して導入したもの。

ロバート・マクナマラは、フォードの社長となって業績を立て直したビジネスマンでもある。

本格介入する以前、アメリカは1万人の軍事顧問団、要は特殊部隊をベトナムに派遣していた。

この特殊部隊には、とにかくコストがかかる。
ベトコンが特殊部隊員を1人殺せば、アメリカからその分のコストを奪っていることになる。

それだったら、コストが安い正規軍を投入したほうがいい。

マクナマラは、そのコストを分析してキル・レイトを導入した戦争を発案した。

これにはケネディ大統領が反対した。
が、ケネディは暗殺される。

計画されていたかのようにしてトンキン湾事件がおきて、正規軍が投入されて、ベトナム戦争は本格化する。

以上は、落合信彦の著作で繰り返し書かれているので、知らずに暗記してしまった。

「落合信彦だしなぁ」と真に受けてなかったのだけど、当時にキル・レイトが存在していたのがわかったのが、大きな謎がとけたようだった。

仏教弾圧

ベトコンが現れたとなると軍隊が出動して、ナパーム弾や大砲で一帯を焼く。

生き残った農民は、ベトコンに走る。
生きるためにベトコンとなるのだ。

ベトコンに共産主義者は1%か2%くらいでしょうと、その僧侶は答えている。

で、南ベトナムの人々は80%が仏教徒である。
信心深さは限りない。

しかし、もし共産化されたら宗教は否定される。
僧侶の立場は微妙だ。

南ベトナム政府は、僧侶が農村を援助するのを禁じていた。ベトコンを援助するのと同じと考えているし、仏教徒の団結を警戒しているからだ。

それでも農村に援助にいった僧侶たちが、政府軍の兵士に射殺されたこともある。

僧侶たちは集めた金や米も政府に送ったが、サイゴンで抜かれて、省で抜かれて、郡で抜かれて、農村に届くころにはすっかり少なくなる。

海外からの援助物資も、少しも農村には届かない。
闇市で堂々と売られている。

この国はネズミが多いのです、多すぎるくらいです、と僧侶は嘆く。

僧侶たちは、政府に抗議もしている。
あくまでも非暴力の姿勢を崩さない。
断食や焼身も行われていた。

その日、200名の僧侶はデモをする。
仏教の教えに基づいて、デモは暴力を生むと禁止していたのを、ついに破るのだ。

政府軍に催涙弾を打たれて、200名の僧侶は逃げることなく地面に伏せた。

非暴力の姿勢を貫くつもりだ。

・・・ 開高健は、胸を打たれたとデモを見守る。

その翌日にも、僧侶によるデモがおきた。
政府は、共産主義者の策略という声明をだす。

高名な僧侶は「こんな政府は見たくない」とナイフで目をえぐり出したという。

公開銃殺

テロリストが公開銃殺される、と人々が話す。

市内の広場には、処刑者を縛りつける柱が設置された。
警戒のため、武装警察が広場のあちこちに立った。

ワゴン車が広場に入り、1人が下ろされた。

やせた、首の細い、ほんの子供だった。
汚れたズボンをはき、はだしで佇んでいた。
こわばって震えていた。

・・・ 本文中には、この写真も収められている。
銃殺された直後も撮られて収められている。

銃音がとどろいたとき私の中で何かが粉砕されたと、1ページほど怒りを含んで書いてある。

後日の新聞によると、彼は17歳。
手榴弾と文書とビラを運んで死刑となったのだ。

この報復は行われた。
26名のアメリカ兵と共に、市内のホテルが爆破された。

2名のベトコンも死んだ。
自爆攻撃だった。

アメリカ兵

開高健は、サイゴンから離れてヘリで移動する。

ジャングルの中に、そのアメリカ軍の基地はあった。
もっとも危険度が高い基地だ。

「最前線はどこですか?」と対応の少佐に質問して、たしなめられる。

前線などない。
それがわかれば苦労しない。
全土が最前線というのが、この戦争の特徴だったのだ。

将兵の1人は、正直に気持ちを話す。
驚いたのは、平気で反戦を口にすることだった。

「このあたりの村をよく見てみろ。若いやつなんて1人もいない。政府軍の兵隊にとられるか、ベトコンへいくかだ。俺はデモクラシーのほうがいいと思う。しかし、この国の貧しい農民がコミュニズムに走るのを責めることができない。ベトコンのことはよく知らない。しかし彼らは、何か農民に訴えるものを持っているらしい。おそらく、この戦争はベトコンの勝ちだろう」

悲観的な意見も聞かれた。
が、アメリカ兵の多くは、茶目っ気があって、陽気で、人がよくて、率直で、忍耐力に富み、義務感は極めて強かった。

ベトコン

ジャングルは、地平線まで続いている。
その地下には、くもの巣のようにして、トンネルが走っているのだ。

もちろん、掘ったのはベトコンだ。
3メートルか5メートルの深さで、土が堅くてもトンネルを掘っていく。

10キロに及ぶトンネルもある。
あり得ないのは、支柱が1本も使われてないことだった。

彼ら彼女らは、重い火器を担いで、1日に20キロか30キロは移動する。

戦闘になると、自動車のタイヤでつくった “ ホーチミンサンダル ” をつっかけただけで、素早く走ってやってくるのだ。

南ベトナム政府軍兵士

アメリカ軍と同じ基地には、南ベトナム政府軍の兵士も駐留しているが、彼らは簡素な小屋で寝起きする。
物置、いや、家畜小屋だ。

どうにかしたいが政府間協定でできないと、アメリカ軍の少佐は苦しそうだ。

南ベトナム政府軍の兵士は、地上最低であるという。
金に困ると、敵のベトコンに弾丸を売ったりもする。
その弾丸で撃たれて死ぬ。

が、人間としてはいじらしい。
怠け者で、だらしがないが、単純で優しくて、深かった。

16年も戦っている軍曹がいる。
フランスからの独立戦争のあとは、北ベトナムとの戦争、今度はベトコンとの戦い。

つかれたと、軍曹はいう。
ベトナム人からは、たびたび耳にする言葉だった。

掃討作戦

ある日、開高健は、基地からジャングルに進む。

アメリカ軍と南ベトナム政府軍の部隊と一緒だ。
500名のベトコン部隊ありとの情報が入ったのだ。

ジャングルでは、5メートル先も見えない。
静かだった。

部隊を率いる大尉は、静かなのはよくない兆候だという。
撃ってきたほうがありがたいという。

その先に、ベトコンの補給庫を発見したとたんだった。
銃撃音がきた。

大尉は、発炎筒を投げる。
それを目印に、上空からヘリが掃射する。
ベトコンも発炎筒を投げて撹乱する。

大尉は地図を広げて、コンパスで確めて、国道で待機している砲兵隊に無線連絡。
すぐに砲撃されたが、ベトコンの銃撃は収まることがない。

基地への潰走がはじまった。

開高健は、30名ほどの、南ベトナム政府軍の負傷兵を目にする。
死んでいく様も目にする。

彼らは叫ぶこともなく、痛みで悶えることも呻くこともなく、血の池の中でまじまじと木や空を眺めていた。

そして静かに死んでいく。
いつの間にか死んでいるのだった。

兵士としては地上最低の彼らなのに、肉の苦痛に対する忍耐と平静は聖者をしのぐ。
死にだけは聖者となる。

ベトコンも同じだそうである。
目をそむけたく傷をうけても、一言の呻きを洩らさずに、ひっそりと死んでゆく。

普遍的なベトナム人の特性であるらしいのだ。

ラスト8ページほど

ジャングルの作戦のあと、開高健はサイゴンに戻る。
また、クーデターがおきている。
失敗した将軍は、ある国の大使館に逃げ込んだという。

その国は聞かなくてもわかっていた。
クーデターは、その国の意向を受けているのか。

基地で目にした、ロケット弾や武装ヘリコプターやジェット機は、どれも最近式であった。
どんどんと戦場で消費されていた。

そして、迫撃砲を含めた火器は、大半が第二次世界大戦用に製造された年式の刻印があった。

漠然と、アメリカの武器商人が、古くなった武器の倉庫の戸をサイゴンに向けて全開にしているのだという印象をうけた。

当のアメリカ兵も、このような意見を持っていた。
彼らが、一般的なのか例外的なのかは知らない。

アメリカ市民の血税は流されて、サイゴンを経由されて、本国の石油会社や武器会社に払い戻されている。

・・・ 以下、開高健はとりとめがない。
批判するのでもない。

ベトナム人の複雑な心を把握しているのはベトコンだ、という断言はあった。

歯がゆさは伝わってくる。

どういう歯がゆさか?

まず、先のベトナム独立戦争では、多数の残留日本兵が関わって英雄と讃えられていた。

彼らは今でもベトナムにいて、南北も戦争も関係なく、ダム建設や電気工事を進めている。
その現場も取材していた。

そういう事実もあるからだろうか?

何人もの南ベトナム人の言からも、ベトコンの文書すらにも、日本人が何かを示唆してくれるのではという期待を見聞していたのだった。

でも、日本の政治家たちは、いや、私たちだって “ チョーヨーイ ” とつぶやいて眠っているのではないのか、と述べてあとがきとなる。

2ページに満たないあとがきでは、半ページを費して、カメラマンの秋元啓一に賛辞を送る。

いちいち書いてないけど、彼は全ページに登場している、とお礼を述べる。

とにかく私たちは見てきた。
結論は読者におまかせします、と本書は終わる。