本当の哲学をはじめよう
「哲学」って何だろう。
と仕入れた知識の断片を、見本市みたいに並べて披歴するのが「哲学」ではない。
哲学はもっとシンプルで、かんたんな問いから始まる。
これに尽きる。
『ロバート・ツルッパゲとの対話』は、哲学の本である。
これを書いたのはワタナベアニさんという方であり、以下「アニさん」と勝手に親しみを込めて書く。
一度だけしかお会いしたことがない方だけど、「ワタナベさん」だとなんとなく違和感があるので、下の名前で呼ばせていただく。
アニさんは写真家であり、哲学者ではない。
ここに書かれていることは「ロバート・ツルッパゲ」という洒脱なおじさんが、アニさんに語っていた内容をまとめたものである。プラトンがソクラテスの人となりを本にして後世に伝えたように。
何より、この本は学問的な哲学の研究書ではない。「ソクラテスかプラトンか、ニーチェかサルトルか」といった知識としての哲学を学びたい方は、この本を手に取らなくてもいい。それは野坂昭如のCMソングくらいで十分である。おれもおまえも大物だあ。
ロバートは読者に何を語りかけているか。それは「田舎者の了見を捨てよ」である。「了見」とは、八っつあん熊さんがよく言うあれである。
「田舎者」の「了見」とはなにか。今は亡き立川談志師匠によると「田舎者は出身地関係なく存在する」つまり「東京だろうがどこであろうが、田舎者はいる」ということである。
田舎者とは何か。自分の選択に根拠をもたない。誰かが良いと言ったものを妄信する人たちのことである。
ロバートは、自分の哲学がない人たちを憐れんでいる。
自分の感性を信じられず、誰かが良いと言ったものに飛びつく人たち。
自分の判断や価値基準を自分で守ることができないから、どこか他人事のような言葉でごまかそうとしてしまう人たち。
ロバートの言葉は時に辛辣だ。辛辣を漢字で書けと言われたら100%書けないくらい辛辣だ。
この本を読んでいると、正真正銘の田舎者である私はドキッとする。
「おらこんな村やだ」と、地方から薄っぺらのボストンバッグには収まらない荷物を複数抱えて、三代続いた江戸っ子が住む粋でいなせでべらめえな東京にやってきた私には、まるで自分のことが書かれているように思いながらこれを読んだ。
辛辣だが、決して特定のだれかへの悪口が書かれている本ではない。
これは「もっと肩の力を抜いて生きていいんだよ」という、今を生きる人たちへのロバートなりの励ましなのだと思う。どこの誰かがつくった基準に乗っかって生きているだけのお前はいったい誰なんだ?という優しい警句なのである。
それがまさに「哲学」の出発点であり、人間が言葉を駆使して生み出す創造物の源泉なのである。
ロバートに会ったことはないけど、たぶん不愛想で一見冷たい人なんだと思う。だけど、たぶん不器用で優しい心の持ち主には、心を開いてくれるおじさんなのではないか。
私は干支2.5周分しか生きていないけど、世の中には愛想を振りまく卑しい人間がいるということも、なんとなく分かってはいる。なんなら自分がそうかもしれないが。
ロバートが見ている人間世界は冷徹であり、血の通った温かさも本当はあるのだと思う。希望を捨てないこと。自分の感性を自分で守ること。ちょっとした勇気と想像力を持つこと。
ロバートは、いつもこの本の中にいる。ページをめくれば。彼との知を愛する人間同士の対話が始まるのである。私はロバートを私淑しつづけたい。
アニさん、すてきな本を書いてくれてありがとうございます。