公開したくなった
noteはおもしろい。自身の考えを具体的にまとめられるからだ。それだけならチリ紙の裏でもいいのだが、フォーマットがちゃんとしている差は大きい。書ける、整理される、発表できる。なにより読む習慣のある人たちが集まっている。他のSNSとはわけが違う。おもしろいわけだ。
実はこの『タモツの日記』は、noteのふたつ目のアカウントになる。以前のアカウントでは、ここまでのおもしろさは味わえていなかった。それは読まれる努力が足りなかったからであろう。
それに気づいたのは農園サイトでブログをはじめたからだ。趣味や遊びではない。仕事として書いた。変なものは出せない。文体もそうだが、内容にも気をつけた。読まれる努力をしたのである。それは不思議と書くことの楽しさに繋がっていた。
とはいえ、八百屋に魚を並べてはいけない。あくまでも、きのこ農家の読み物だ。書きたいものがあっても関連がないものは我慢した。だが、今となっては愚策だったとも思っている。
そして始まった『タモツの日記』。ここには自由があった。書きたいものを書ける。とはいえ我慢がゼロになったわけではない。いろいろと配慮はしていた。たとえば、当初『実験動物』の単語も出さないつもりでいた。『お掃除系の仕事』で貫くつもりだった。だが、途中から葛藤していた。その単語を出せば書けることも多くなる。出さなければ書けないことも増えていただろう。
結局、早いうちに単語を出すことに決めた。おそらく自意識過剰になっていたのだと思う。出そうが出さなかろうが、僕にそこまでの興味関心は集まらない。とはいえ、出し方には気をつけた。さいわい、僕の主張はどちらかに加担するものではない。その局面を僕なりに考察した結果だ。おそらく共感はされないが否定もされないだろう。分からない人は素通りする。分かる人には問いとして残るだろう。そうなるように素直に書いてみたのである。
他にも我慢したものはあった。僕は人として小さい。誰かを嫌うこともある。断罪したいことも然りだ。けれども、それは書かないと決めていた。代わりに違う表現では書いた。おそらく分かる人には分かると思う。有料にしてクローズドな環境にして書こうと思ってもみたが、違う表現で書く方法が正解だった。いくらか僕の中のモヤモヤも解消されたからだ。
写真のこともそうだろう。ただ、これに関しては直球で書いた。正直に言うと誤解が怖い。今でもだ。受け取り方によっては僕にヘイトが向くだろう。けれども直球で書いた。理解されなくてもいい。とはいえ理解されるようには書いた。僕の中では合格点だ。あとは読み手の問題だろう。そう思えるまで書き直した。おかげで達成感すら味わえたのである。
つまるところ、自由と思っていた場所でも我慢は必要であった。ただ、我慢で終わらせることなく、抗えばよかったのだ。そう、農園サイトのブログで我慢していたことも、きっと表現方法の工夫で乗り越えられたはず。それが愚策だったと思う理由というわけだ。
そもそも、農園サイトのブログは、農園や僕を身近に感じてもらうためにスタートさせていた。「僕のひととなりを知ってもらう」という目的があったわけだ。以下はブログの紹介文である。
その目的なら、この『タモツの日記』を読んでもらった方が、はるかに僕を知れることになるだろう。だが、抵抗はある。誤解も恐れている。けれども、それ以上に恥ずかしが勝っている。そんなことで躊躇している者こそが僕だ。きっとこの記事でも僕のことを知れるだろう。
他を見回せば、そんな企業ブログは多い。僕も何件かは読者になっている。そこでのおもしろい記事は企業サービスとは関係ないものだったりもする。だったら僕も『タモツの日記』をお客さんに公開するべきではなかろうか。簡単なことだ、リンクを差し替えればいいだけである。やってみようか。
そんなことを思う今日この頃です。