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どうとくの正体

昔、私が通っていた小学校は「人権教育」にやたらと熱心だった。
というのも、校区がその昔、いわゆる「部落」(同和地区)と呼ばれる地域だったかららしい。といっても、私自身が小学校時代から現在に至るまで、何かそういう土地柄による属地主義的な差別を受けた覚えなど全くない。ただ、シンプルに「差別はいけない、戦争はいけない」といったことを小学校の「どうとく」でみっちり教えられた記憶がある。

時は流れ、私は親になり、来年息子が小学生になる。現在の住まいは私の両親への配慮もあり、実家と同じ市に住んでいる。ただ同市でも、実家とは離れた場所に住んでいるので、息子の校区は私の通っていた小学校とは別の校区になる。

ただ、来年度から「小規模特認校」という制度が同市で導入され、同市のいくつかの小規模小学校が特認校と認定され、指定校(校区)以外の小学校として選択できるようになる。「小規模特認校」は生徒数が少ない学校なので、市から特別な予算を得て、遠くからでも通いたくなるような「特色・魅力ある学校づくり」を行う。そのため施設整備、外部講師などが結構充実しており、指定校とは力の入れ具合が違うのだ。

私の通っていた小学校(母校)もその「小規模特認校」に該当しており、実際新築校舎の施設見学にも参加し、私も息子も好印象だったので指定校以外の候補校として検討している。現在の住まいと少し距離が離れているため通学面においてデメリットがあるが、施設としての教育環境は抜群に良いと思っている。

だが、私の母はその検討について、「断固反対」と言う。その理由は、冒頭に書いた通り、そこがその昔「部落」であったというところにある。
正直私は、その点ついては眼中になかった。実際6年間通った当事者として、地域柄「人権教育」にはとても力を入れていて、それが特に悪いとも思わなかったからである。
そういう母であるから、私は子ども時代、母の言われるがままに右も左もわからず、中学校受験を強いられ、私立中学校に進学させられることになる。その中学校一年生のクラスの中で、訛りのある女子生徒に対し、平然と差別発言をする私立小学校上がりの男子生徒がいたが、私はその男子のあまりの品のなさをずっと軽蔑していた。ゆえに土着の土臭い「人権教育」にはそれなりに社会生活で生きる上で重要で必要不可欠な感性が盛り込まれているということを、私は実体験で認識している。
母が「部落」に対してどういう印象なのか、正直よくわからない。ただ、顔をしかめて、否応なく「そこはやめてほしい」などと言う。世間体第一主義なのは分かるが…。
ただ、過剰に自分の住んでいる地区を「部落」と恥じたり、不用意に「部落」という言葉で差別認識をあえて掘り下げて巻き散らす。その半ば自虐とも思える言動、被害妄想に違和感を覚える。
むしろ、その言動が逆に有りもしない「差別」を助長しているんじゃないのか?とさえ思えたりする。

ふと思う…あの「どうとく」の授業って何だったのか?

もう30年ほど前の話で、よく覚えていない。簡単にいえば「昔、隣りの地区からそういう差別的な仕打ちが色々あった、だからそんなことをしない人間になろう」みたいな内容だったと思う。見た目も言語もおなじ人が、その土地にいるという理由だけ(属地主義)で、人権を侵害されるのか?というところからの「人権教育」で、戦争やレイシズム(人種主義)など各人権問題につながっていく…そんな感じだった。

今の時代は便利で、YouTubeで調べると、「部落」のシステムについて、下記のような分かりやすい動画があった。


これは驚愕だった。
通称「どうとく」=「人権教育」=「解放教育」に潜む、ある種の闇をこの歳で初めて知った。
そしてそれが母から感じた過剰な「部落」意識とどこかリンクすることも何となく分かった。

国家レベルの大義、ある目的を成し遂げるには「教育」から、つまり幼少期からこどもに思想や概念を刷り込む必要がある。それは明治維新以降の富国強兵を掲げる中での寺子屋廃止、画一的な国家の義務教育の導入にも観られる。部落解放の場合、それが「人権教育」なのだが、そこに刷り込まれる朝田理論と呼ばれるロジックがかなりぶっ飛んでいる。

朝田理論(あさだりろん)とは、部落解放同盟中央本部の第2代中央執行委員長であった朝田善之助が確立させた部落解放理論。朝田テーゼ、朝田ドクトリンとも呼ばれる。「不利益と不快を感じさせられたら全て差別」「差別か否かというのは被差別者しか分からない」といった、つまり『差別』と感じた者に全ての決定権と主導権があるという考え方で、部落解放運動の根底を成している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つづけて、

これを利用して役所や企業、個人を『差別した』と脅して就職・定期的補助金や無償化など金銭など同和利権を獲得する関係者が多数発生して、部落被差別者地域と認定された者は富裕層になるなどした。金銭目当ての運動に変質したことで当初の解放運動の目的が失われた。この理論を旗印に相手を『差別』認定して暴力や脅迫を行っていたことで、一般大衆へ暗黙に朝田理論を用いる怖れがある人物・組織、つまり部落関係と関わることを可能な限り忌避する意識が生まれて国民融和を妨げる元凶になった。部落解放同盟・同和利権は日本共産党によって批判されてきたが、2000年末期頃から黙殺されていた地方自治体に「人権」を盾に同和行政にして利権の温床に行ってきた窃盗、横領、恐喝などの犯罪・行政対象暴力が相次いで摘発されているため、朝田理論を元に行われている同和行政を終結することが差別の解消になっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

実家の校区は「部落」というよりは、むしろガラが悪い。そのガラの悪さといえば、建物がボロいといった見た目より、まさにそういう暴力的な輩が蔓延っていることが所以でもある(実際私も彼らがどこにいるかは分からない)。
「部落」や「差別」を利用して行政を脅し、金をせしめる。その「部落」や「差別」といった問題が無くなることは、彼らにとっては不都合。故にその関係を維持させるために、こどもの教育である「どうとく」に紛れて、まるでワクチンを打つかの如く、朝田理論の種を植え付け、過剰に「部落」に反応するような体質をつくりあげる。私自身はそのようなロジックを植え付けられた覚えはないが、恐らく右も左も分からないこどもが、そこで塩漬けにされるとそういう思想に走るのかもしれない。しかし、なかなかテーマがグロテスクなのであまり長時間触れたくないというのが、本音である。

差別反対の中核に真逆のベクトルが紛れ込んでいる。最近ニュースを騒がせている、カルトによる政治(政教分離)にも通じるところがある。表には出てこない、メディアも取り上げない、センシティブで過激な問題。

もちろん母が「朝田理論」に支配されているというわけではない。ただ、その「部落」に対するやや過剰ともいえる自虐感は、差別を減らす方向ではなく、逆に差別を助長させるベクトルであるということを言いたい。何よりもそれが、被差別者に紛れたある特定集団の私利私欲のためのシステムであるという事実に、この上ない胸糞の悪さを覚える。当初の属地主義的な「差別」(そもそもそれ自体何なの?と個人的に思うが)とは全くかけ離れた別ベクトルの「差別」を解消することが目的になってしまっていることも、全く以って意味不明である。まるでZガンダムのティターンズのようだ。

そしてこれは「部落」だけの話ではない。この常軌を逸した過激派(本質的な解決とは真逆)の思想は、レイシズムやフェミニズム、海洋問題、近年のSDGsやLGBTQなど、あらゆる人権・環境問題に孕んでいるように思える。

「問題」なんてものは、「問題」に仕立て上げるから「問題」になる。そもそもそれは、わざわざ「問題」にする必要があるのか?それが「問題」で無くなることで困るのは誰なのか?「問題」がある限り、「ソリューション(解決)」が起動し、そのビジネスで「金」が動き回る。小さい魚の群れにその凶暴でクレバーなサメは身を隠し、常に流れてくる「金」という獲物に目をギラつかせている。

こどもが育ち大きくなるにつれ、社会的な分業役割に価値観を見出し始めたとき、その役割の重さの違いに対する感情や差別化が生まれる。もともと人間の部分的な能力や機能については何一つ平等なものはないが、こどもたちはその価値観の中でどうしても差異を認めようとし、分業の中で価値の高低を計るようになる。人間にとって差別感覚というものは、如何ともし難い本能的な特性、人間の業といえるようなものである。
佐々木正美『子どもの心の育てかた』(河出書房新社)要約・抜粋


良くも悪くも「どうとく」教育には、その教育のバックボーンも含めた人間のあらゆる「問題」が詰め込まれている。その「問題」の本質は人が本能的にもつ「差別感覚」であることは間違いないのだが、その「問題」に便乗して巧妙に別の「問題」を組み込もうとする輩がいる。「どうとく」の内容に入りこむ前に、俯瞰して本当の諸悪の根源は何かを観る必要がある。それは幼いこどもにはなかなかハードルが高い。コーヒー豆の欠点豆をピックアップして取り除く作業の如く、人が本能的にもつ「差別感覚」の問題ではない「問題」が組み込まれていないかチェック・監視できるのは、やはり親しかいない。

脳の隅にこびれついていた、あの土臭い「どうとく」にまた再会するときがくるだろう。
人間なりに自分なりのこたえを見つけ、息子と共有したい。


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