「学校に行かない日」がやってきた
学校って、そういうところ?
「学校にいきたくない」
ある朝、娘がそういった。小学一年生にあがって、まだ数ヶ月もたっていないころだ。
彼女は幼稚園のときから、小学校に憧れて、通学をだれよりも楽しみにしていた。だが、この世の春のように期待に目を輝かせ、くったくなく笑っていた入学式の表情はどこへやら、玄関先で足を止めるわが子の顔には重く暗い雲がおおいかぶさっている。
どうしていきたくなくなっちゃったの? とぼくが聞くと、「先生がいやだ」「気持ちよく学校にいれない」「きまりが多すぎる」「宿題ができない」……でるわでるわ、いくつもの理由がじゅずつなぎになって、ゾロゾロと口をついてでてくる。
娘は幼いころからよくしゃべる子だった。なにかを見たり聞いたりすると、すぐ「どうして?」「なんで?」と質問してくる。ぼくは、またなぜなぜ虫がうずきだしたなあ、とゆかいな気持ちになりながら、「あなたはどう思う?」と聞き返すようにしていた。
そんなとき返ってくる答えは、いずれも突拍子もなくておもしろい。斜め上の発想を前に、子どもにはかなわないなぁ、と思う。大人のきまりきった了見で、適当に答えてしまってはもったいない。
「他の人はそういっていたり、ぼくはこう思っているけど、ほんとうのところはだれにもわからないんだよね」
娘が、まだこうして話し相手になってくれるうちは、一緒にわからないことの海で遊んでいたい。
世の中はなぞなぞの本のように、問いと答えが対になっていないものだ。どんな物事にも答えはいくつもあって、その合間を行き来し、モヤモヤと考えをめぐらす。そういった時間こそが、おおげさにいえば生きることの醍醐味ではないか。お手軽に答えにたどり着いてわかった気になるより、いつも大小の問いをもって暮らしてほしいな、と思っていた。
しかし、こういう考え方は、彼女が通った小学校とは、どうも馴染まないようなのだ。
娘の担任教師は、よくいえば、自分の理想を信じて指導する、わるくいえば、目の前の子どもがどう感じているかは二の次で、理想をガンガン押しつけてくるタイプだった。
廊下は左側通行で歩きなさい。休み時間でも隣の教室にいってはいけません。宿題は毎日かならずやってきなさい。「~してはいけません」と「~しなくてはいけません」が、子どもたちに雨あられのように浴びせかけられる。
娘が「どうして、そうしなくちゃいけないの?」と先生に聞いても、「そういうきまりだから」「学校ってそういうところだから」という答えしか返ってこない。娘はルールがいやなのではない。なぜ、そういうルールがあるのか、納得がいかないのだ。納得できるまでとことん向き合ってくれない大人は信頼できない。不毛な問答がくり返されるたび、先生と娘の心の距離は、磁石のマイナスとマイナスのように、どんどん広がっていってしまった。
これはまずいとおもい、ぼくと妻は担任教師と電話でやりとりしたり、学校に出向き教頭も交えて話し合いを重ねたりした。だが、いくら時間を費やしても、おたがいの意見がぶつかるばかりで、まったくかみあうことがなかった。話せば話すほど、球の戻ってくることのない沼とキャッチボールをしているような気分になる。
学校にはいりたての一年生なんだから、先生もいろんなことを決めてかからないで、もうすこしおおらかな気持ちでかまえてみてはどうでしょうか。この子ができないことをちくいち責め立てるのではなくて、ぐっとハードルを下げて、学校に来ているだけで満点だとおもいませんか。ささいなことでいいからおもしろがったり、誉めてあげたりしてみたら、距離がちぢまることもあるかもしれませんよ。宿題をやっていかなかったとしても、この子はこの子なりに復習したり、本を読んだり、手紙を書いたりして家ですごしていて、ぼくらもそれでよいと思っているから、大目にみてもらえませんか。……娘と先生のこわばった関係がすこしでも楽になるように、あの手この手で提案をしてみたが、担任教師はいっこうに首をたてにふらない。
「一年生から学校のきまりや勉強への姿勢をしっかり習慣づける。なにごとも最初が肝心なんです。わたしはこのやり方を変えられません」
そのうち教室にはちいさなホワイトボードが用意されて、宿題や持ち物を忘れた子どもや、その日の授業でちゃんと発言できなかった子どもたちの名前が書き出されるようになった。先生のいうとおりにできた子には花丸やシールがもらえるが、できない子はさらし者にされるわけだ。
さらに、従順なクラスメイトができない子をつかまえて、「先生はこういっているのに、そんなことしたらあかん」といってくる。子ども同士が責めあい、取り締まりがはじまった。これはなかなかつらい。
彼の"熱血的な"指導方法は一部の保護者のあいだでは人気らしいが、ぼくはそのやり方にはまったく賛成できなかった。毎日自分なりにがんばって学校に通っているのに、「できない子」として責められつづけられる娘の気持ちが痛いほどわかる。もし、ぼくが小学生だったら、やはり「学校にいきたくない」と玄関先で泣いただろう。
「登校拒否」と呼ばれた時代
ぼくは子どものころ、学校という場所と仲良くなれなかった。
四年生の途中から不登校になり、そのあと五、六年生はよい先生と出会えて通えたが、ふたたび中学校にはいってからつまづいて、中学一年生のおわりを境に学校とおさらば。十代から二十代なかばまで、インドと日本を往復して暮らしながら、なにもかも独学で学んだ。
小学四年生のとき、学校にいかなくなったのは担任がいやだったからだ。
その先生は子どもたちをひとつに束ねて、自分の理想の教室をつくりたいようだった。はみだしもののぼくはいつも目をつけられていた。遅刻もするし、忘れ物だらけ、宿題もやっていかないから、学校にいくたびに先生に怒鳴られ、放課後居残りさせられて、ながいことお説教をうけることになる。
「そんな調子でやっていたら、立派な大人にはなれませんよ。コジキになるしかない」
一億総コンプライアンス時代のいまからしたら、ひどいいわれようだ。
ビシビシと指導したら、すこしはマトモになると先生は思っていたのかもしれないが、まったくの逆効果。いくらのんびりとした性格のぼくでも、毎日怒られつづけられるのはつらかった。
ぼくはある日、家の玄関先で「もう学校にはいきたくない」と母に涙ながらに訴えた。
ありがたいことに母は咎めるようなことは一言もいわず、
「これまでよくがまんして通ったよ。がんばったね。気がすむまで家にいたらいいわよ」
といって、ぼくが家にいることをすんなりと許してくれた。
あとで聞いたことだが、母はぼくが小学校に入学するときから、この子は学校に合わないんじゃないか、むしろ、学校という場所にいたらこの子の持っている大事な芽をつまれてしまうかもしれない、と心配していたそうだ。なかなか変わった親だが、ぼくにも思いあたるふしがないわけでもない。ひとことでいってしまえば、超絶マイペースな子だったのだ。
ぼくが学校に行かなくなったのは、いじめにあったわけでも、集団生活がきつかったわけでもない。先生とそりが合わなかっただけ。
だから、わが家には毎日入れ代わり立ち代わり友だちが遊びに来て、近所の小学生のたまり場のようになっていた。「学校に来ないクラスメイト」という存在がリラックスできるのか、みな、家にくるとほかでは話せないような打ち明け話をするようになった。そのおかげで、学校でなにがあったか、だれがだれのことを好きなのか、いまどんなことが流行っているのか、ぜんぶ知ることができた。
ぼくのように勉強も運動もできない小学生が学校にいく目的は「友だちと会える・遊べる」ことにつきる。なーんだ、学校に行かなくても友だちと遊べるんじゃん。あほみたいに開き直ったぼくは、晴れ晴れとした気持ちで明るい不登校生活を謳歌した。
1990年代のはじめごろ、まだ学校に行かない子どもは珍しい存在で、学年に一人いるかいないかという程度。呼び名も「不登校児」ではなく、「登校拒否児」だった。いまおもうとヘンテコな名称である。まるで「兵役拒否」のような響きがある。ほんらい、子どもは学校に行かないとならないのに、それを自分勝手に「拒否」している、そういう含みがあったにちがいない。
よくもわるくも牧歌的な時代だったのだろう。ぼくが学校に行っていないという噂が近所に広まると、毎日のようにあちこちから大人がやってきては、学校に行くよう説得しはじめた。何年も連絡をとっていない母の高校の同級生がとつぜん尋ねてきて、「小、中学校だけはいったほうがいい」と、こんこんと説教されたこともあった。
「日本には義務教育があるのに、子どもを学校にいかせないなんて法律違反じゃないですか」
といって、家族を責めるひとも少なくなかった。
そんなことばを聞くたび、母はさらりと答えた。
「あら、それは間違いよ。義務教育は勉強をしたい子に教育の機会を保障するためのもので、学校にいきたくないという子を無理にでも引きずっていくための脅し文句じゃない」
あれから30年以上の月日が流れたが、いまだに「不登校」への誤解や偏見は社会のなかに蔓延している。
学校に行きたくない子どもにむかって、
「大人が毎日会社に行って働いているように、子どもも毎日学校に通わないといけない」
と諭す人がいる。
大人が働くことと、子どもが学ぶことは、まったく別の話だ。世の中には会社に行きたくない大人だってたくさんいる。大人なら転職するという選択肢もあるし、自分にあった働き方を模索することだってできる。だが、子どもにはそのような選択肢は用意されていない。義務教育という謎の呪文を唱えられ、どんなにいやでも学校にいくのがあたり前。多少いやでも、みんな我慢して大人になったんだ、と訳知り顔でいわれてしまう。
よくよく考えれば、大人と子どもを比べて、おなじラインで語ろうとすることにどだい無理がある。そういう大人にかぎって、都合のよいときだけ、子どもを子どもあつかいして、コントロールしようとするものだ。
自分の娘が、もし「学校に行きたくない」といったら、母のように「そう。そうしたらいいよ」とさらりと賛成できるだろうか。そのことはぼくにとって長年の課題だった。
しかし、それはふいに、しかも娘の小学校入学から数ヶ月もしないタイミングで、目の前にドーンとあらわれたのである。
〈つづく〉