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フリースクールって、なにが「フリー」なの?

 「もう学校には行かない」宣言をして、晴れて(?)不登校となった娘は、小学三年生二学期から京都市の北はずれにある某フリースクールに行くようになった。

 バス停から住宅街を抜け、車一台がかろうじて通れる細い農道を進んだ先、畑にかこまれた民家がぽつんとある。ここに小学生から中学生まで20名弱の子どもたちが集い、遊び、学んでいる。ふつうの学校にいってみたがうまくいかず不登校になった子もいれば、はなから公立の学校にいかなかった子もいる。学校案内によれば、「自分たちで学びを計画し実行していくことによって、主体性を身につけ自立していく場」だそうだ。
 1990年代からやっているフリースクールということもあり、これまでの卒業生も多く、京都で生活しているとたまに「わたしもあそこに通っていたんです」という人に遭遇する。運営者は友人の知り合い、友だちの子も何人か在籍していて、まえまえからどんな様子なのか伝え聞いていた。

 娘は何回かおためし参加をした後、4年生から正式にメンバーに加わり、平日はほぼ毎日この場所に通うようになった。はじめのころは、慣れないバス通学や、ワイルドな集団活動に緊張していたが、日を追うごとにすこしずつ場に慣れてきて、「やっと自分の学校が見つかった」と楽しそうに学校でのことを話すようになった。

Fワードがモンダイだ?

 フリースクールに通って数ヶ月、ふいに娘が訊ねてきた。
「あのさ、ふぁっく、ってなに? なんか学校の男子がいつもいっているんだけど……」

 わが家では性にまつわる話題に関して、これまでオープンに話してきた。生物である以上さけては通れないことだ。民族や宗教によっても、その捉え方は変わってくるし、人間の社会では、よくも悪くもここを起点にしてさまざまな文化や風習が生まれてきた。モラルや差別、保健や衛生的な従来の視点だけではなく、人類学者のように大らかに、冒険者のように手探りで、社会と性について子どもとともに思索を深めることはできないか、と考えていた。

 娘が幼稚園のときには、お風呂に浸かりながら、男女のからだの違いやしくみについてよく話した。男性器には「ちんちん」というかわいい呼び名があるのに、なぜ女性器にはそんなふうに親しく呼べる名前がないんだろう? という疑問が二人の間にわいてきて、「じゃあ、男性器と女性器の自分だけのあたらしい呼び名を考えてみよう!」ということになった。
 娘はあれこれ考えたあげく、「マコトくん」と「ヒカルちゃん」という名前をつけた。(日本全国のマコトくんヒカルさんゴメンナサイ…!)

 「お前はオンナなのに、なんで恐竜のマットなんて使っているんだ」
 小学一年生のとき、給食のときにつかうランチョンマットの柄を見た同級生の男の子が、そういってきた。娘はその場でうまくいい返せなかったことがそうとう悔しかったらしく、家に帰ってきてから、
 「それっておかしいよね? 恐竜は男子のものじゃない!」
 とぷりぷり怒っていた。

 世界には女性の恐竜学者や古代生物学者がたくさんいるし、お花柄やピンクの服を着る男性だっている。「青や水色は男の子、赤やピンクは女の子」といった、色と性を結びつける連想は明治のころにつくられたもので、江戸時代の人びとはもっといろんな色の着物を楽しんでいた。
 インドでは、ひげヅラのおっさんも赤やピンクの色のシャツを着こなしているし、男性がスカートのようなかたちのドーティー(腰布)を巻いていたって、変な目で見られるようなことはない。はて、日本人がいっている「男らしい」「女らしい」って、いったいだれが決めたものなんだろう。
 男か女か、どちらにもあてはまらない性もある。
 からだとこころの性が異なる人、インドのヒジュラ(両性具有)、ひとつの性に決めかねている人もいる。白か黒ではなく、グラデーションのようになって、いろんなかたちの性をもった人がこの地球にはひしめている。

 性について問い続けることは、世界のかぎりない豊かさに触れることだ。それは大人が無自覚に身につけてきてしまったルールや常識をいったんほぐして考え直すことにもなるんじゃないか。ぼくは男性で、なおかつ親でもあるので、いつかそんな話を娘と気軽にできなくなるのかもしれないけれど、その日が来るまでは、ぞんぶんにおしゃべりして、一緒に考えてみたい、と願っていた。

それってどういう意味?

 娘から投げかけられた「ふぁっく」ということばについても、このことをとっかかりにして、ちゃんと話してみたい。

 「ふぁっく」を、辞書で調べると、ノルウェー語の「Fukka」(交尾する)、スウェーデン語の「Focka」(一撃を加える、押す、交尾する)、ドイツ語の「Ficken」(英語と同じ意味)……ヨーロッパ全域に似たような表現が見つかる。語源は諸説あるようだが、インド・ヨーロッパ語族の「strike」(一撃を与える)を祖先にしたことばだという。
 そこにはいろんな意味がこめられている。「性交」そのものズバリを指す以外に、「破滅させる」、「ダメにする」という表現にもなる。語気を強めて単体で使えば、「殺す」、「死ね」、「クソ」、「バカ」という罵りの言葉になり、日本人が「これバカうまい!」というように、動詞や形容詞の前に「ふぁっく」や「ふぁっきんぐ」をつけて強調表現として使うこともある。
 一方で、場面や相手を間違えると喧嘩が勃発し、殴りあいや殺人に発展することもある。映画や音楽でこの単語を使うとその部分だけカットされたり、かわりにピーという電子音が鳴ったりする。口にするのもはばかれるので、その単語を説明するためにアルファベットの頭文字をとって「Fワード」と呼ぶ。つまり、英語圏の国では、公の場で軽々しく使うようなことばではない、ってことだね……。
 ここまで説明して、娘がぽつりという。
 「ふーん。なんだか変なことばだね」
 性的なことばを口にするのは恥ずかしいけれど、性そのものは生物としての機能であって、恥ずかしいことではない。恥ずかしいと感じているのは、それを受けとる人間の心の動きだ。
 性の話題は、こころや身体、人に知られたくない感情や、他人との関係とも深くつながっているから、そのことで人を笑ったりからかったり、罵ったりするのはやめておいたほうがいいかもしれない。

 しかし、なぜ性交の意味をもつことばが、人を罵ることばに変換されてしまうのか……娘は釈然としない面持ちで尋ねる。
 「あの男子たちはその意味知っているのかな?」
 ぼんやりと卑猥な意味だと知っている子もいるかもしれないけど、たぶん、多くの子はそんなこと考えないで、だれかの真似をして使っているだけなんじゃないかな。ぼくが小学生のときも「コロス!」というセリフが男子の間で流行ったことがあったけれど、みんなが本当に相手に殺意を持っていたわけではなかった。

 しかしながら、フリースクールの生徒は20人ほどで、そのうち女子は2人だけ。圧倒的マイノリティである。ぼくは娘にきいてみた。
 「それで……あなたはそのことばをいわれて、どう感じてる?」
 娘はすこし考えてからいった。
 「気持ち悪いし、いやだなって思う」
 でも、学校で年上の男子に「Fワードをやめて」なんて、面と向かってはいいづらい。そうだよな。ならば伝えるべきだよね……と、ぼくらは学校の運営者にこの件について連絡した。
 いま学校で男子たちがひんぱんに使っている「Fワード」について、わが家では娘とこんな風に話しをしました。もちろん明確な答えはでないけど、学校や家庭でも「Fワード」について、あらためて話し合う機会をもってもらえませんか? 性教育に限らず、子どもの人権と発話に深くかかわってくる問題だから、みんなで考えたら有意義な時間になると思うんですよ、と。

 ところが、先方からの返答は意外なものだった。
 「わたしたちは大人と子どもの信頼関係を第一に考えているんです。日常的に子どもが、"ふぁっく"、"殺す"、"死ね"といっていたとしても、大人が一方的にそのことばを禁止してしまったら、仲間だとみなされない。こころを開いてもらえない。だからそれらのことばを子どもたちがいっていても、わたしたちは気にしないし、そういうことばがポンポンでるような関係こそが、おたがいが信頼できる、許しあえる関係なんだとおもっています」

 ぼくはちゃらんぽらんでポンコツな人間だ。偉そうに子どもに説教できることなんてほとんどない。でも、おなじ空間をともにする大人として、たとえ嫌われることになっても、伝えるべきこと、負わなくてはならない役回りがあると思う。単純に「ふぁっく」や「殺す」ということばが日常的にあふれ、それをだれも気にとめない空間は居心地が悪い。
 海外では文化の違いから、ささいな発言がもとで不用意に人を傷つけてしまうことがある。運が悪ければ犯罪に巻き込まれることだってある。
 日本のフリースクールというちいさな場所であっても、すくなくともそのことばに対して不快に思う子がいるのであれば、大人も子どもも一緒に考えてほしい。そういうことが、集団に流されず自分で考えられる、主体性のある子どもを育む一歩一歩になるのではないか。

 フリースクールの保護者の会でも話し合いの提案をしてみたが、親たちの口からは肯定的な意見が聞かれなかった。
「思春期にさしかかっている子ども(とくに男子)とそういう話はしにくい」「年齢が低くて性の話は理解できないとおもう」「そんなことばは家では使っていない」などなど。
 かんじんの運営者はFワードそのものを、たいしたことばではないと思っているようで、
 「うちの学校の子たちは、下ネタが好きだからねぇ……」
 とケラケラ笑って答えている。
 「性教育は家庭でやってください。それに、そういうことばをいわれても、イチイチ傷つかないように娘さんをもっと鍛えなくてはいけないと思います」
 という、ものすごい理屈も飛び出した。鍛えるって、なにを?

 いま、あらためて文章に書いてみると、このやりとりが、ぼくがこのフリースクールに対して違和感を感じた最初の出来事だったのかもしれない。

 しばらくして、日本学の研究者をやっているエストニア人の友人が遊びに来たとき、ことの顛末を話して、これってどう思う? と聞いてみた。
 彼は大笑いして、皮肉たっぷりに答えた。
 「まえまえから、日本で使われている"フリースクール"って呼び名が変だなぁ、と思っていたんだよ。英語圏ではAlternative School(オルタナティブ・スクール)というのが一般的。フリースクールじゃ、学費無料の学校みたい。だから、日本のフリースクールってなにがフリーなんだろう、って疑問だった。でも、今日わかった。"Fワード"がフリーなんだね! ワォ、最高じゃないか」

〈つづく〉

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