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まだ、出会っていない

不登校は「ご家庭の問題」?

 娘の再登校チャレンジは出鼻を挫かれるようなかたちでおわってしまった。もし保健室に滞在することを許してもらえたら、違う未来も描けたかもしれないとおもうと、返す返すも残念である。(そもそも"許してもらう"というのも、おかしな話ではあるけれど……)

 こんなにきゅうくつな環境下で、おなじようにいづらさを感じている子はいないのか。教頭にほかの不登校の子たちのことを聞くと、「当校では不登校対策委員会を設置しており、毎月担当の先生方と協議していますが、そのような声はありません」とマニュアルめいた答弁がかえってきた。こちらから質問するまで、そういった委員会が学内に存在することさえ知らされていなかった。いうまでもなく、不登校対策委員会からこちらに連絡や聞き取りがあったことは一度もない。

 ちょうど知り合いがPTA会長をしていたので、ダメ元で保健室のことを相談してみると、第三の道ともいえるアイデアを提案してくれた。
 保健室がだめならば、ふだんは空室になっているPTA会議室をつかって、教室にいきにくい子、いづらさを感じている子のためのとまり木のような場所をつくれないか。教師の手が足りないのであれば、保護者が持ち回りで子どもたちを見守ることだってできる。上履きを脱いで座れるマットや、ハンモックを用意したり、多目的でほっと一息つける環境にしよう。
 教頭が提案する「プリントをやるだけの別室」よりもよほど楽しげだ。

 しかし、そのような建設的なアイデアは、いとも簡単に、校長と教頭の二人によってつぶされてしまった。
 保護者といえど外部の人間が学校に出入りすることはセキュリティー上の問題がある、PTA会議室の本来の目的にふさわしくない、教師の目の届かない場所ができてしまうのは子どもの安全を守れない、不登校の子が他の子とおなじ場所にいたいと望むとは限らない、コロナ感染対策等々…の理由が述べられたが、いずれも現場で多少調整すれば解決できそうなことばかり。結局のところ、これまでやったことのない「特例」を認めたくないだけのようにおもえた。

 では、せめても不登校の子を持つ親が集まる会はできないか。
 おおくの不登校の子の親たちは、不登校のことを話す機会をほとんどもっていない。地域でも孤立しがちで、家族内でも夫婦で考え方が違っていて、その話題自体がタブー化してしまうこともある。
 一夜にして悩みが解決することはないけれど、しんどさも、わからなさも、しゃべってみることで、すこしだけ楽になるのではないか。
 場所はPTA会議室を使わせてもらえたが、学校側からはほかの不登校の子の保護者を紹介してもらえない。PTA会長とぼくらが知っている範囲で声をかけて、リモートもふくめ、なんとか5人の保護者が集まった。
 「不登校」とひとくちにいっても、子どもによっていろいろな理由や状況、学校との付き合い方がある。おしゃべりを通して、そのことを共有できたのはよかったが、なにより驚いたのは、学校から保護者への対応が人によってまったく異なっていたことだ。
 保護者たちは学校と一対一で各自やりとりしているので、自分たちへの対応が学校のすべてだと思っていたが、横のつながりができてはじめて、じつはそれぞれの間にはかなりのギャップがあったことを知った。
 ある保護者は教室はおろか、学校内への立ち入りも禁止されていた。意見をはっきりいう人で、子どもの特性から合理的配慮を望んで何度も学校に話し合いにでかけたり、教育委員会にも働きかけていくうちに、出禁になってしまった。「保護者の方が学校内までついてくると、不登校が余計に悪化する」といわれたそうだ。"悪化する"なんて、まるで病気扱いである。
 その話を聞いたほかの保護者が「え? わたしは今週もふつうに子どもといっしょに教室までいっていますよ」と打ち明けはじめる。

 「当校では~となっております」とお決まりフレーズで教頭が断言していたことが、まったくの場当たり的な対応だったこと。教師によっては協力的な先生もいること。ある子には比較的理解しているように振る舞っていた教師が、ほかの子には人権侵害ともいえるような行動をとっていたこと。こまかいけれど看過できないエピソードがボロボロでてきた。
 学校側はこういうふうに保護者たちが集うことで、自分たちのちぐはぐな言動がばれてしまうのを恐れていたのではないか。そう考えると、保護者の会に対して非協力的態度をとりつづけていたことも合点がいく。

 とはいっても、ぼくたちも、ほかの保護者たちも、学校vs保護者というような、二項対立で争うようなことは望んでいなかった。
 両極端な関係でなく、あいだの視点、あいだの場所、グレーゾーンをつくりたい。いづらい子どもたちにとっての選択肢を増やしたい。ルールにあてはめて管理するのではなく、ひとりひとりの子をみて、もうすこしだけおおらかに接してほしい。
 そのためには保護者もできるかぎり協力するし、ともにいい環境をつくっていきたい。そう思っていた。

 だが、校長の考え方はまったく逆だった。ある保護者が校長からいわれたそうだ。
「不登校の子は、学校にくる前に保護者がちゃんと説得して、文句を言わないように約束してから登校させてください。不登校はご家庭の問題で、わたしたちの問題ではありません」
 このことばに保護者一同は衝撃をうけた。
 毎朝、家の玄関で行くか行かぬか苦しんでいる子、学校には通いたいのにいざ行ってみるとしんどくなってしまう子、先生の配慮のない一言に傷つき身を縮めてしまっている子……そういうわが子とむきあいながら、なんとか学校と接点をもてないか、あわよくばすこしでも通えるようにならないか、とアンビバレントなはざまで日々悩んでいる保護者に対して、なぜそんなことばを投げつけるのだろう。あまりにも想像力がないし、そういうやり方では双方の溝は広がるばかり。
 彼の言い分はつきつめたら「不登校の子どもは学校に来る権利はない」といっているようなものだ。ぼくは、なにかトドメを刺されたような気持ちになった。

 ちなみに一年生から五年生までぼくらは何度学校に足を運んだかわからないが、話し合いに校長が同席したことは、ただの一度もなかった。こちらがしつこく望んでも「校長はお忙しいので」「予定があるので」の一点張り。校長室の扉はつねにかたく閉ざされていた。

先生である前に人間として

 一学期のおわり、夏休みのはじまり。娘がしょんぼりして通知表をながめていた。成績がつけられていないのは、もはやなれっこだったが、担任が自分の手で通知表を届けず、近所のクラスメイトに頼んで、ほかのプリント類といっしょにゾンザイにポストインさせたことが、彼女には相当ショックだったようだ。そこにはメモも手紙も添えられていなかった。
 一学期のあいだ、教頭からは電話はあるものの、担任は連絡もよこさない。定例の家庭訪問以外で家に来たこともなかった。

 むかし、ぼくが不登校だったとき、どんなにイヤな先生でも、週に一度は家庭訪問にきたものだ。「クラスのみんなは今週こんなふうに過ごしたよ」「あなたはどんなふうにやっていますか」などとやりとりがあった。帰り際には、決まり文句のように「気が向いたらいつでも学校にきてください。先生は待っています」と励ました。
 あまのじゃくなぼくは、そんなこといわれても知るか!とそっぽをむいて聞かないふりをしていたが、「学校にいっていなくても、ぼくもクラスの一員ではあるんだな」ということをほんのり感じていた。

 娘が再登校チャレンジをした数日間、担任は娘を無視しつづけた。あの日から彼女の疎外感は変わらない。むしろそれが学校の大人たちへの不信感につながっているように思えた。

 娘がひどくがっかりしていることを妻が担任に告げると、ようやく夏休み明けになってわが家にやってきた。
 玄関先で「そんなつもりではなかったんです」と、のらりくらりといい訳をつづける担任の話を聞いているうちに、ぼくはどうにもがまんできなくなって、語気を強めて問うた。
 「先生、娘のことをどう思っているんですか。学校に来ない子はクラスの子ではない。連絡も取らなくてもいい。勝手にやってくれ。そんな風に思っているんですか。"学校に行きたい"といっているこの子の声を無視しつづけるんですか?」
 すると担任は戸惑った表情を浮かべながら、おずおずといった。
 「いえ、わたしはそんなこと…。娘さんのことについては、わたしも校長と教頭の指示を待っているところなんです」
 ぼくは怒りを通り越し、かなしくなってしまった。
 「あのね、先生。そんなことを聞いているんじゃないんです。校長や教頭がどう対処するかではなく、先生自身の気持ちを教えてほしい。先生である前ににひとりの人間として、この子とどうむきあうのか。わからなくても、正解がでなくてもいい。戸惑いやモヤモヤとした気持ちもふくめて、あなたのことばが聞きたいんです」
 しばらく沈黙が続き、担任がいった。
 「わたしは何十年も教師をやってきましたが、娘さんみたいな子ははじめてなんです。だからどう接していいのかわからないんです。わたしは娘さんといい出会い方ができなかった。最初の出会いが違えば、もっと仲良くできたかもしれない」
 その最初の出会いを潰してしまったのは、なによりあなた自身や学校じゃないですか、ということばが喉まででかかったが、ぼくはぐっと飲み込んだ。
 「先生は出会いに失敗したというけれど、たぶん、娘は先生とまだ出会っていないんだと思います。人間は顔をあわせるだけで出会えるわけじゃない。対面でのコミュニケーションが難しいならば、みじかい手紙を届けるとか、自分の近況をしらせるとか……出会うためのやり方は無数にあるとおもいます。娘をクラスの一員だと思ってくれるならば、学校こないな、伝わってないな、と思っても、どうかあきらめず、どうやったらこの子と出会えるんだろう、って考えてもらえませんか」
 
 あの日から担任はすこしずつ変わっていった。週に一度はわが家によって、プリントとともに娘に手紙をわたしたり、短い会話を試みるようになった。
 あいかわらず、空回りやぎくしゃくしたところはあったし、わざわざいわなくてもいい地雷をふんだりもしたけれど、すくなくとも学校で無視されつづけたあの経験は上書き更新されたように見えた。
 先生自身も娘という存在を通して、あたらしい世界と触れているようだった。驚き、戸惑い、多くは理解不能のようで、たよりなくもあったが、そこにはたしかに有機的なやりとりがあった。

 子どもと先生がともに試行錯誤しながら歩み寄って、ことばと気持ちをつなげていく。わからないことを、わからないといえる。自分以外の他者と「出会う」ことは、もっとも根源的な学びのひとつだ。それは大人も子どもも関係なく一生つづく。ただ皮肉なことに、それは学校ではなく、わが家の玄関先でおこなわれた。

 娘はふたたび学校に通うことはなかったが、ときどき自分が参加できそうな授業があるとその時間だけ学校に行き、遠足や体験学習などの課外活動は、ぶつくさ文句をいいながらも楽しむようになった。

 こうして、娘が五年生のおわりにさしかかったころ、ぼくらは一冊の本と出会う。
 それが「あきちの学校」という途方もない社会実験をスタートさせることになろうとは、だれにも想像ができなかった。期待とあきらめの波がよせてはかえす荒涼とした岸辺で、夜明けの一筋の光はすぐそこまで迫っていた。

〈つづく〉

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