他者は思いやれないか?
私が、普段は気が合うと思ってる人でも当然意見が違う時はある。そんな時、自分はおかしいなと思ってもスルーするのが大人の知恵でもあるが、むしろ自分の思考と向き合うチャンスだと思い、過去の問題としてもう忘れてる人も多いだろう、赤十字の献血に使われたイラストについて、私自身の考えを率直に書く。
まず作品の内容に対する感想は人によって違う。当然だ。仮にある一定層のファンにとっては、どれほど名作であったにせよ、どれほど面白くても、どれほど勇気づけられても、いや、たとえば学生の主人公(自分はその主人公気分で見る人が多いのだろうか、どっちでもいいがな)に、わざとちょっかいをかけ、気を引こうとする、童顔で可愛らしい後輩の巨乳キャラに癒やされるとしても、その絵が公共機関の広告で使われたなら、作品全体のトーンや、実際に作品内で描かれる内容など関係なく、宣伝のために切り取られたコトバ、存分にキャラクターの容姿も強調した絵そのものが公衆に提示されるのだから、そのものズバリについて批判や指摘を受けるのは当然だろう。
この場合、そのイラストを意図的に切り取ったのは、「それはふさわしくない、やめるべきだ。」といった人や、あるいは誰かにとって不快であり、おそらく現代社会における倫理規定では、きつい口調で「性差別的だ」と批判したり、イラストの差し替え等を要望した人たちの星の数だけ理由もあるだろうが、その人たちではない。そして批判したところで、裁判でもないのだから、彼らの意見に強制性など無い。もしもそれを止めるために破壊行為を始めたら、訴えられるだろうし。
この場合、つまり自らその広告として利用した者が、そのイラストをあえて選び、おそらく作者もそれでOKといったのだろう。私は作者について何の批判をする気も本当にないし、その作品に全く興味がないわけでも、作品として批判するわけでもない。事実そっちゅう動画サービスでタイトルは見ていたが自分がそれにたまたま反応しなかったから、内容を詳しく知らないだけだ。
だが、そのイラストをその作品群から選び、使うと決定し、事実上使用したのは日本赤十字だから、その選択に対して、私は今批判している。
なんで公共機関で使われた、非実在巨乳ロリ顔ウェイトレスのイラストへの違和感を唱えたり、それが不適切じゃないか? もう少し良い選択はなかったのか?と意見したり、自分は気持ち悪いという感覚を意見として述べるとき、わざわざこちらが、使われた作品の詳細を、それを好んで購入する人たちの感性に合わせて、実際に作品を見て理解する必要があるのだ? あるわけないだろうが。
カルピスお子様劇場だろうが、どれだけ感動的なそれこそ家族向け作品だろうが、あるシーンの切り方、使い方によっては、公共における宣伝素材として不適切になるだろう。
名作におけるたった一回の性描写であっても、それがそのまま公共でデカデカと広告されたら、誰だっておいおいと思うだろう。なんでそれと同じことだと、ロリ巨乳非実在美少女スキーたちは理解できないのだ。特定層のファンにとっての普通、むしろ、魅力は、いつだって、そのカテゴリーに属さない人間にとっては、不快だったり、不適切にもなり得る。だからこそ、和を求める集団は場所を考え、特に集団の利益がかち合うなら、互いに思いやるのではないか?
だれも、このアニメやコミックをR指定にしろと言ってるわけじゃない。だが、そのイラストの内容が本当に広い世代の公共にとって好意的に受け止められるか、この場合は賛否両論だったならば、なぜそれを無視する必要があるのだ?
オマエの嫌いなものを貼り付けてやる、見せつけてやる、オマエにとって不適切に感じるものを、表現の自由のために、どんどん公共に出してやる合戦を、おっぱじめたいのか?愛知トリエンナーレのカウンター合戦か?
その作品に描かれているストーリーを否定しているのではもともとない。もっというと、そんなの本当に多くの人、その作品のファン以外は当然興味はない。作品から抜き取られた一枚の絵、キャラクターのポーズ、容姿が献血というそれこそより広い世代、様々な背景、そして男女共通の、善意に基づく活動の宣伝に、場所や空間を限定せずに、それこそゾーニングなど意識せず使用されたから、その絵はどんな感情を公共の多様な思考、感覚を持つ人達に巻き起こすのか考えれなかったのか? そういうことだ。
別に外人がいい出したからとか、ジェンダー問題の専門家や活動家、何かの教授でなくても、なんでこのイラストをわざわざ選択して、それを公共機関の広告に使おうと考えるんだろうな、日本赤十字って変な団体なんだな大丈夫かと考えた一般人は無視できない数だと私は思う。
そう、私は本当にそう思っていた。なんでこの国や地方、様々な公共団体は突然、特定のマニア(悪い意味じゃない)いわゆるオタク層が好むアニメや、アイドル文化を、公共でどんどん使い始めたのかと、ずっと不思議に思っていた。それこそ、民間に任せておけば十分であろう?
私の好みから言えば、そもそも、ゆるキャラとか、御当地マスコットとかを、公共団体が一斉にやり始めた事自体、違和感はあった。だが、それは子どもが喜ぶなら立派な理由としては成立するだろう。ところが、アニメブーム、コミックブーム、あるいは、国民総選挙とかいう会いに行けるアイドルなどなどの、性的指向が強く現れるだろうジャンルの娯楽に、国が、地方が、そして公共組織に、従事する者たちが自分たちのあるべき姿を理解せず、悪ノリを繰り返し、どんどん民間との境、つまり公私の区別がつかなくなっていったと、私は感じている。もうこの流れは止まらないかもしれない。
小さな子どものいる家の、大人たちが誰もが目にするところで、全く同じアニメの同じ構図のポスターを仮に貼っていて、それをみた子どもはどう考えるだろうなとか、あるいはその家にやってくる年配の人はどう思うだろうなとか、お茶の間で、どう考えても子どもには見せたくないシーンがいきなりはじまっても、その家の住民はTVを消さないでガン見して、性教育と考えあるいは、どうでもいい勝手に成長するからなってことで、子どもが見ていても気にしないか、そういうことだろう。
それが許されるとしても、他者の判断までは変えられない。そして他者の反応、判断がより大きな意味を持つのが公共なのだ。家でずっと下着を履かないのはOK,外だと犯罪。別に極論でもなんでもなく、それと全く同じことだ。後はどこまでを許容するかだろう。
たとえば、人気Vtuberの、おっぱいや、性犯罪を茶化したような歌詞をわざと使った特定層を狙った作品を、ゾーニングを無視して、何度も何度も広告で流された時、そんなに嫌ならキッズチャンネルを見ておけと、この国の大人たちは考えるのかということだ。ああもちろん、実際の歌詞の意味まで考えろっていう人もいるだろう。本当に聞きたいのだが、なんでそこまで、ファンでない他者が寄ってやる必要があるのだ。
深夜に隣から御経が聞こえてきて、うるさいなと苦情を言う時に、理由がある、実は深い哲学的な意味があるなんて、知ったことじゃないだろうが。
もっともどう思うのかと聞いても仕方ないのもわかっている。多分、答えは自分は気にしないだろう。それがどうしたっていうのだろう。つまり彼ら彼女らは、そんな他人の思考、感覚など気にする必要がないのだろう。
私があえて、好きだ嫌いだといったところで、実際のところ意味がない。もしもあの広告のイラストを見て、喜ぶ人が圧倒的に多かったなら、それで話は済んでいただろう。だが、気になる人がいて、不快感を表明する人がいてその批判意見に納得する人も十分な数存在した。私は元から後者だ。他人がどう評価しようが、あのイラストが、本来、多様な人々の共感性で成り立つはずの、公共における献血というとても大切な、人命に関わるボランティアを推奨するものとして前向きに評価する部分など、本当にない。
一方でその作品を、自分がそこに描かれた架空のキャラをみて、ほのぼのしたい時に、癒やされたい時に、自分の空間で、あるいはそれの愛好家同士で作品について楽しく語り合いながら、視聴することに、何の批判もない。それこそ同じように、その作品への理解がある彼女と見るのも、それが可能なら楽しいだろう。
だが、たとえばその場に、あらゆる意味で性的に強調された様々な描写、造形、作品に影響を受けやすい子供が混じっているなら、あるいは、それを望まない人がいるなら、わざわざその人達の目に付くところで、見たいとは思わない。ホラーが嫌いな人にホラーを見せたいとは思わない。親しい者たち、たとえばサークルでアニメ視聴会をしたいときに、誰だって、みんなが見たい、あるいは、誰もそれは駄目だと思わない作品を選ぶだろう?もしも特別なジャンルを見るなら、それを断って、嫌なら見ないほうがいいと教えてあげるだろう。そしてその者がみなくてすむようなところで見ようとするだろう。
それくらいの共感性、感受性が、なぜ公共になると持てなくなるのだ?ましてや、献血のPRにおけるイラストで、それぐらい考えないのだ?
貧乳のほうが性的に興奮する人間にとっては、性的でないと考える人も事実いるのだが(喩えとしてだね)貧乳をあえて性的に伝わるように強調してたら、同じ批判を受けるのは当然だろう。それくらいできない絵描きなんて存在しないのもわかってるし。
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これは雑記である。なぜなら私はこの件は、だいたい誹謗中傷合戦にしかならない、この手の議論が、より多くの人にとって、いい方向へ帰着した、珍しい成功例と思っているからだ。
法律上では日本赤十字社は、国の機関ではない民間の団体というところから、ならば民間だからOK、表現の自由が保証されていると考える弁護士の意見は知っているが、それは多分、この件で法律的にもNOだという意見への法律がお仕事の人間同士のやりとりだろう。
法律上は民間団体であろうが、表現の自由を守るために設立されたのでもなければ、成年(主に男性向け)に人気のあるジャンルのアニメやコミックを出版もしくは販売する一企業でもないし、タイアップ広告でこの作品と同じ顧客層に向けて何らかのサービスを販売する企業ではない。
私にとって日本赤十字は、それこそ公共の福祉のためにこそ存在してきたし、それを謳って賛同者から寄付を集めることで成立している、赤十字国際委員会(ICRC)の、日本における機関であり、その国際赤十字の理念の一つで国際人道法を広め守ることを謳っているのだから、重要な活動の一つである献血のPRに使う素材においても、公共=他者への気配りとなるゾーニングは、この組織で活動する人は、常に意識すべきであろうと思う。
それがPR活動において守られていないと感じる人がいたら、批判や批評があって当然であろう。
その結果(つまり批判する人がいたからこそ)、作者が意図していなくとも、日本赤十字社は至ってまともな判断をしたと私も思う。反対意見、他者の違う考えを汲み取って、同じ作品を使ったその後のキャンペーンにつなげたのだから、この件における批判は多くの者にとっては、異なる評価、意見がぶつかりあった場合の成功例だろう。
第二弾のキャンペーン内容として、公表されたイラストを見比べたら、その作品への評価関係なく、使われた素材を批判する必要など私も絶対に感じなかっただろう。これに関わっていた人たちが、「うるさいから、してやっただけ」と思う人がいたり、「うるさいから、こうするしかなかった、邪魔な奴らだ」と思う第三者が、もしいたとして、それに対する率直な意見は「これくらい、なんで最初から、これほど大きな公的機関がわからないのか?」「もしも言われなかったらOKだと、今でも思っているのか?」と、いいたい気持ちは、こっちも捨てている。
ちゃんと反対意見を聞き、じゃぁやめますではなく、それを望む人たちの要望に沿う形で正しく反映したのだから、それこそ公共組織として、立派なことだと素直に認めているわけだ。
ちなみに、献血を、私は何かをもらいたくてしたことなど無い。だが大阪の京橋でよく来ていた献血車では、オレンジジュースをもらえたのを、おぼえていて、たぶん生涯で4回、5回ほどだろう。
献血への軽い拒否反応が、薬害エイズ問題以降身についてしまわなければ、きっと、もっとその回数は増えただろう。病院での検査による採血とは違って、それこそ、間違いがもしあっても、結局は自己責任としかならないであろう確率は低くても大きすぎるリスクを考えると、それまでは平気だった行為でさえ、よほど厳格なガイドラインのもとで行われないと、ボランティアですら躊躇してしまう。
https://www.jrc.or.jp/donation/information/
より多くの人数を集めるための、都市中心部や商業地帯、あるいはコミケ等での献血が本当にそのガイドラインに即しているのか、もっとより確実に安全なやり方はないかと私はむしろ思っているが、その良い方法などは正直全く思いつかない。
他者を思いやることに、悪いことなどなにもない。ちょっと我慢したり、常に反対の感想を持つ相手のことを考えれば、お互いうまくいくなら、それに越したことはない。それを一番意識すべきは、たとえば国であり、地方であり、あるいは日赤のような公共の機関であり、私はゾーニングを常に意識して表現の自由を護りたいと感じている。それがこの件における、私の結論だ。