ドーキンス氏の性自認への疑問
私自身が、ほぼ高校時代から無神論なので、(だが自分で、創作物や哲学として宗教に触れる、文化、歴史、人類思想史として触れるのは問題ないと考える)リチャード ドーキンス氏の様々な著作や、彼の言動は、好む好まないに関わらず、無神論やヒューマニズムに関する様々な情報の中で、否が応でも入ってきます。
ドーキンス氏が積極的に自分の考えを表明し、科学者として議論が好きであるため、当然彼の発言は、無神論の批判者にもよく使われる。公に何かを表明した著名人はスタンスが明確なほど、当然反対の論者から批判を受けることもあり、それが、道徳や倫理観の話題になると、(無神論は道徳や倫理の話ではなく、純粋に科学的な話なので、分けて当然なのだが)何らかの政治的活動を伴う団体と意見が合わない場合、大きな騒ぎになることもあります。
戦闘的無神論者と言われるドーキンス氏ですから、様々な彼の議論を始めるきっかけとなる、喩え話が、その話題とは直接関係のない、いわゆる空気感みたいなもので、反感を買うことも多いですが、私が特に興味深かったのが、彼の性自認に対する話題です。
まずはじめに断っておきます。私は、生物学的な性は本人が選べるものではないとういのが、私の立場です。古典人類学的な分類での(外観としての、遺伝子学的特徴)としての、白人、黒人、黄色人種という分類があるのと同じです。
In 2015, Rachel Dolezal, a white chapter president of NAACP, was vilified for identifying as Black. Some men choose to identify as women, and some women choose to identify as men. You will be vilified if you deny that they literally are what they identify as.
— Richard Dawkins (@RichardDawkins) April 10, 2021
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当時、この書き込みがちょっとした騒ぎになり、英国ヒューマニスト協会が、ドーキンスに与えていた賞を剥奪する結果になりました。
この書き込みは、日本でも様々な理由で間違った和訳の伝言ゲームが繰り広げられ、全く言っていないことを勝手に変換し、原文を真面目に読まない人たちの間でも広められ、よくわからないリベラル批判に利用されていたのも思い出します。
NAACPとは、全米黒人地位向上協会であり、レイチェル氏は、ワシントン州のスポーケン市代表でした。彼女は長きにわたり自分が黒人だとして活動してきたのが、白人同士の両親、(先祖としては北、中央ヨーロッパ人の血と、ごく少数のネイティブ インディアンの血を受け継いでいる)から生まれたことが明らかになり、その地位を追われただけでなく、様々な批判を受けることとなりました。
彼女は「自分が白人であることを認めない、私の認識は違う」と言ったのですが、彼女が自己認識する人種は、他者、公共によるIDとしては、黒人だと認められず、白人だったわけです。
この場合、白人か黒人かと分類する場合、自己認識か、生物学的、もしくは人類学的な特徴として考えるかで全く変わってきます。
ドーキンスにとっての、白人か黒人かは、見た目云々ではなく、人種の分類としてであり、「自分がどうでありたいか、どう感じるか」ではなく、「最初から人類学的分類として決まっている」という科学的事実です。これが取捨選択できる思想や、まだ可能性がある国籍(大変ですが)の変更とは違うところです。
白人が、外観を変えて黒人のように振る舞っても、黒人であるとは認めてもらえません。この逆もしかりです。どれだけ日焼けサロンに通おうが、黄色人種として生まれてきた人間が、黒人になったり、カラーコンタクトとヘアカラーで、公共や他者が人類学的に白人として分類するわけもありません。これは倫理等の問題ではなく、科学的分類です。
私が、どれだけ自分が白人である、もしくは黒人である、と主張しても、それはおそらく社会的には詐欺になります。でも、自分はそう思っている、そうなりたいと思うなら、それは私の思想の自由です。そのために整形して外科手術を受け、髪を染めるのは、私個人の自由です。
だが、私が形質的に変換した人種で、イエローではない、私はブラックやホワイトであると主張しても(白人、黒人、黄色人種という分類では)社会的にそれを認めるべきだとは思えないし、あるいは私は子供時代からずっと自分が黒人だと感じてきて、黒人文学や音楽、あらゆるカルチャーを学び、それを実践してきたのに、自分が黒人になれない社会は不幸である、私を黒人だと認めてください、というのは認められないと思います。
一方で、だからといって差別してほしいとは思いませんし、私が黒人になりたい、あるいは白人であると(自己認識では)感じて、そのように振る舞うからといって、それで批判されたり迫害されるべきではないでしょう。
それでも、生物学的、人類学的な分類としては間違いなく、私は黄色人種であり、国籍は日本人です。(両親も、私が認識できる祖先も、日本本土出身なので。もっとも、本当の所そんなの私はどうでもいいのですが。はい、たまたまです。)
この事実を例にして、ドーキンスは率直な疑問をぶつけました。
「何人かの男性は自分は女性だと自認する事を選び、何人かの女性は自分を男性だと自認することを選ぶ。もしも貴方が、彼(彼女)らの本来の性は、彼らが自認した性ではないと言ったら、あなたは批判される。」
ドーキンスとしてはダブルスタンダードを指摘したわけですが、彼個人の考え方は、私は実際の所わかっていません。ただ、生物学的な分類として述べた性(自己認識とは関係がない、生物学的、先天的事実)が、本人の自己認識と違うからと言って、他者や公共機関、様々な団体が、生物学的性で規定することを(事実なのだから)批判するのはおかしくないか? という疑問だと思います。
それは何も蔑視や、差別を意図していません。誰でも、生物学的性を持っていて、それがたまたま、個人の規定する性と一致しなかったと言うだけの話です。
もし差別があるとするなら、先天的性(遺伝的特質)における差別があることこそ問題でしょう?誰も自己認識の性を問題にしていないのです。そして一致しているか、していないかも問題にしていないのです。
「生物学的に男として生まれた、女として生まれた、あるいは、遺伝子的にレアな形で生まれた。」
これは、本人がどうこうできることではありません。一方でどう認識しようが自由だし、実際に自分の望む性と、その特質(それは本人が、その性の特質をどう思うかに過ぎないが)自分が近づけることもできます。
だからといって、公共や社会(他者)が、それぞれの個人を認識、分類するときに使う性として、生物学的性を使用するのは、間違っているでしょうか? それを否定する必要がほんとうにあるのか? というのが私の考えです。
自己認識の性は、個人として重要です。そう認識する人を尊重するのも当然だと思います。
でも、公共が性で分ける必要がある場合、生物学的な性ではなく自己認識の性が優先されるべきだとするなら、その理由が必要です。そうであるべきだという人は、むしろ、自己認識も文字通りの性別も一致している多くの他者の気持ちを無視しています。
自己認識は、自分がそうでありたい、そう感じている、思考や感覚の話であり、そう振る舞ったり外観を替えることはできても、本来の生物学的な分類における性は、先天的なものであり、変わることはありえません。
そして、先天的な性の違いを根拠に成立している様々な公共(民間)における、分離があり、それが必要なら、それらは替えるべきものではありません。
先天的特質としての男と女が違うところで服を着替えたり、入浴したり、トイレを使うのは、純粋に、先天的な性、生物学的性に基づいています。それが苦痛だという人がいるのなら、替えるのではなく、新たな要請として、少しずつ追加されるべきものです。
そして、もしも性自認の性を公共がIDとして使う必要があるなら、それは生物学的性と共に追加するべきものです。明らかに分類として違う、自己認識としての性と、先天的な生物学的性を、無理に一つにするのは不可能だと、私個人は考えています。
先天的性よりも、自己認識の性を公共がIDとして選び、そちらだけを使用するなら、公共は先天的性が持つ特質による分類を無視することになります。逆に言えばそれが無視できるなら、そもそも分類する必要がありません。分類が必要だと思う(両方の先天的特質による性で)事でわけているだけです。
もしもそれが、先天的性と、自己認識の性が一致しない人にとって困るというなら、それは別に追加されるべき分類です。先天的性による違いを認めないと言うなら、すべて一緒にすればいいというのと変わりません。私はそれには反対です。
男子生徒が着替える場所に、女性が入ってきたら、少なくとも幼年期の自分は嫌でした。
修学旅行で、男女混浴が正しいとは思いません。それらは、自己認識どうこうではなく、純粋に生物学的分類だと私は思います。「僕は女性っぽい(自己認識では女性だと思う)と感じている男子生徒」が、男子として分けられ同じ風呂に入ることで何らかの苦痛を感じるからと言って、生物学的男子が、女子生徒と一緒に風呂に入るのは、女子生徒たちにとっての苦痛です。
一致しない生徒の気持ちを最大限考慮したとして、他の女子生徒たちの気持ちを考慮しないのは、危険です。もちろんこれは、男子生徒にも言えるはずです。
もしも先天的性、自己認識においても男である人たちが使う浴場や脱衣場を、先天的には男であるが自己認識の性が女であるから、使用したくないという人がいて、それを公共は重視すべきならば、その施設は、新たに追加されるべきであって、先天的にも自己認識においても女である人たちが、先天的に男だが、自己認識は女である人と一緒の浴場や脱衣場を使いたくないという、要望を無視するのは、明らかにバランスを無視しています。
万が一それを差別と言うなら、先天的に男性であるが自己認識の性が女である人は、先天的に男性であり自己認識の性が男である人と、一緒の脱衣所や浴場を使いたくないということで、差別しているのと変わりありません。
私個人としては、先天的男性だが自己認識が女性である人の意見や要望を尊重したいですが、それなら、その人も、先天的女性だが、自己認識が女性である人の意見や要望も尊重するしか無いはずです。