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【読書レポ】結婚できないのは私のせい?「なぜ愛に傷つくのか 」
「私が結婚できないのは私に欠陥があるからなのかもしれない…」
そう思う瞬間が、ふと訪れる。例えば、私としてはそこそこ手応えのあった初デートの後、急に音信不通になりフェードアウトを察するとき。街コンで、話もそれなりに合う真面目そうな人と出会って、もしかしたら結婚に向いている相手かもしれないのに、些細な部分が気になってマッチできないとき。あるいはInstagram で、もう会うことも無くなった同世代の友人が、いつの間にか母親になっていることを知ったとき______状況はさまざまで、自己嫌悪と共にそう思うこともあれば、ふと、悲観的なわけでもなくただ事実のように、そう感じられる瞬間もある。
同じような考えに至る婚活女性(女性に限らないか)は、もしかしたら、私以外にも少なくないのかもしれない。結婚だけに限らなければ、さらに多いのかもしれない。「好きな人ができないのは、私の冷め切った恋愛観のせいだろうか」「彼女ができないのは、自分にスペックが足りないからだろうか」「理想が高すぎるのか、あるいは慎重すぎるのか」「もっと美人であれば」「金があれば」「身長があれば」「面白く、人間的に優れていれば」「若ければ」____etc。
恋愛問題において自分自身に自信を失くすという経験がある人は、少なくない…と仮定してみる。
昔はたいして気にならなかった。私は失恋も含めて恋を楽しんだ。結婚願望もたいしてなかった。友人たちと奔放に遊ぶのも楽しかった。しかし30代が近づくにつれ、彼女たちは当然のように結婚をしていく。「結婚ラッシュ」なる年齢に差し掛かり、誇張でもなく、毎日Instagramでは誰かの結婚報告が投稿されているのだ。必然的に私は、自分より稼いでいない友人がモテていたり、化粧やボディメイクなどに投資していない(ように見える)友人に彼氏が途切れなかったり、50近くのバツイチ女性が年下のイケメンを射止めるというケースも、目にすることになる。そうなってくると、私が結婚できないのは、いよいよ私に問題があるのでは、と思うに至るのも当然の帰結に思える。
つまりは、私自身の能力や素質や、恋愛観や、その他の何かのせいではないか、と。
恋愛・結婚がうまくいかないのは、個人のせいなのか?
フォローしてくださっている方は重々承知かもしれないが、私は現在、絶賛婚活中である。開始してからまだ1ヶ月のひよっこではあるが、今月は、街コン強化月間として自らに課し、積極的に街コンに参加している。同時並行してマッチングアプリであるomiaiも始めた。その具体的なレポはこのnoteで随時更新中なわけで、進捗はあるとはいえ、早々にして前途多難である。
仕事ならば、モヤモヤすることがあっても、モチベーションが乗らなくても、「お金をもらうのだから」と割り切れる。趣味や好きなことならば、時間を費やし、学んだり練習することは苦ではない。しかし婚活はそうではない。むしろ、恋愛体質でなく出不精の私が、休日に目眩く勢いでたくさんの異性と「はじめまして」をするというだけで、普通に疲れる。疲れると、ふと冷静になる瞬間が訪れる。以下のような調子だ。
「婚活頑張るぞ‼️」
↓
「疲れた。やっぱり恋愛向いてない😮💨」
↓
「そもそも、心から好きになれる人に出会える気がしない😮💨」
↓
「いや、恋愛と結婚は切り離すべきだ🤔」
↓
「でも、結婚が幸せとも限らない😵💫」
↓
「あれ?そもそもなんで結婚したいんだっけ😯」
謎に悟りモードに入ったところでスヤァ、と眠りにつく。そして朝日と共にまた「婚活頑張るぞ‼️」から始まるのである。
婚活を実際に始めてみてまず感じるのは、婚活とはなかなかのメンタルゲーであり、その理由は婚活市場がなかなかに不毛であるからだ、ということだ。いかにしてマッチしたい人を見つけ出し、実際にマッチできるかという、極めて資本主義的な競争ゲームなのである。
そこでは、ちいさな失敗、たとえばデートでうまく相手を楽しませられなかったかもとか、相手のちょっとした言動が気になってしまうとか、他のより優れた候補と比べられてしまうとか、次のデートに繋がらなくてフェードアウトとか、そういう些細で極めてありふれた失敗に、いちいち傷付いてはいられない。
それらの失敗を踏み台に、よりベストな候補をまた探して浮遊するほかない_____
とはいえ、本当に心が傷つかないかというのは、また別の話である。
実際のところ、いちいち傷ついていては埒が開かないから、切り替えていくしかない、というだけである。そういう意味で、メンタルゲーなのである。
『なぜ愛に傷つくのか 社会学からのアプローチ』
『なぜ愛に傷つくのか 社会学からのアプローチ』は、心理学者であり精神分析家でもあるエヴァ・イリューズ(Eva Illouz)が、愛の現代的な形態を分析した一冊だ。
この本では、愛が、私的領域や個人の精神史からだけでなく、社会的・文化的な構造や経済的条件によってどのように形成され、影響を受けるかを探っている。
そもそも、冒頭に述べたような、「私が結婚できないのは私に欠陥があるからだ」というような調子で、愛・性愛を個人領域の問題として分析したのは、フロイト派の潮流である。それに対し、大きな反駁を行うのが本書である。有り体にいってしまえば、私たちの恋愛経験における失敗は、現代社会の構造のせいでもあるはずだ、ということを、本書は現代社会のシステマチックな分析から指摘する。以下で、特に気になったポイントを整理してみる。
愛の経済化
本書では、私たちの愛は個人の感情的な体験だけではなく、市場経済や消費文化によって強く形作られていると主張される。現代社会では、愛はしばしば商品化され、ロマンティックな関係が選択肢や取引の一部として扱われる傾向があると指摘される。
資本主義社会で露呈した「貧困問題」は、個人の素質のせいだろうか、と著者は問いかける。もちろんその人物自身の運や力量、あるいは身体的不自由、能力の問題が関与しているケースもあるが、貧困問題は、その社会における経済的なシステムの綻びとみることができるはずである。マルクスが「貧困は経済的問題である」としたように、恋愛領域における失敗もまた、近代の社会システムの問題として位置付けるべきである__本書はそう指摘する。
さらに、心理学が広まるにつれ、愛や人間関係が「分析」や「改善」を必要とする対象になったと述べている。まさにフロイト精神分析からの潮流である。これは愛に対する期待値を上げる一方で、傷つきやすさや関係の脆弱性を増幅させている。
近代において、恋愛的痛みはいつしか、個人の資質の欠陥の指標となった。つまり、近代における恋愛の苦痛の経験から失われたのは、「存在論的安心」である。
本書を読んでいてだんだんと見えてきたことは以下である。
私が結婚できないでいることで自分自身の価値を疑問視してしまうのは、自己価値が愛に依存しているという意味で、私が近代的人間だからである…ようだ。
デジタル時代の影響
マッチングアプリやSNSのようなデジタルプラットフォームが、愛や親密な関係の形態を大きく変えているのは直感的な事実としてあるだろう。これにより、関係の一時性や自己中心的な選択が強調される傾向がある。
本書の言葉を借りれば、愛はかつてのように「抗いがたい力」ではなく、「選択」の問題へと変化した。世の中に溢れる娯楽のストーリーでは、いまだに「唯一無二の愛」「運命」「純愛」のようなロマンチックな恋愛観が存在するものの、それでも直近では、例えば『ナミビアの砂漠』のような、恋人を乗り換えても満たされない怒りを抱える若い女性を描くような作品も、若年世代を中心に共感を呼んでいる。
個人的には、そのような状況で、「唯一無二の愛」「運命」「純愛」のような概念は、視認はできるが遥か彼方で輝く星のような存在となり、逆に価値が増しているのかもしれない、と感じる。無意識的に、婚活を行う上で、「唯一の愛を見つけることへのプレッシャー」がのし掛かっている。まるで砂丘の中でできるだけ早く自分の満足できる宝石(妥協して、石かもしれないが、とにかく満足できることが重要である)を見つけなくてはならないような、果てしない気持ちになる。
さらに本書では、マッチングアプリやSNS上での「仮想的出会い」では、多くの場合、自身の創り上げた虚構の相手に思いを募らせていく「虚構的感情」をつくりだす点も指摘している。相手はこの世の中に存在するのに、インターネット上での相手は、その実像とは異なる輪郭を持ち始めるという意味で、この世には存在しない。この興味深い現象は、「存在 / 不在 の二項対立を覆す根本的に新しい手法」であるインターネットの特異性により説明がされている。
…このような形で、他にも例えば「愛はジェンダーによっても異なる形で体験される」など、ジェンダーの観点からも面白いトピックが続いていく。まさに愛に迷える現代人にとって、現代が恋愛という営みから見てどのような時代であるのか、を学ぶ必読の内容となっている。
エヴァ・イリューズが、現代における愛の形を深く掘り下げ、愛がどのように文化的、社会的、経済的な力に結びついているかを明らかにしている一方で、その恋愛主義的な前提や、日本でも同様の説明が認められるかには議論が必要であることについては、巻末にある解説部分で指摘されている通りである。しかし、愛によって傷つく経験が個人の問題ではなく、より広範な社会構造に関連している、という本書の指摘は、婚活真っ只中の私にとって、より広い文脈で自分の状況を理解する助けとなった。
先日のルイーズ・ブルジョワ展との関連
私は先日、森美術館で開催中のルイーズ・ブルジョワの展覧会を観た。
母親との関係や女性としての自己、愛することと傷つくことの二面性といった、彼女の精神分析の結晶ともいえる作品たちに対峙した。幼少期から家庭の愛に傷つきながら、反復脅迫ともいえる作品化を行い、芸術により生き抜いた人生に、私は久方ぶりに感動で涙を流した。
そのレポートは以下である。
ブルジョワの作品を通じて感じる「愛や親密さの矛盾した二面性」は、この本が指摘する「愛がどのように社会や文化に形成されるか」に共鳴している。
展覧会を経て、私は自分自身のトラウマと愛について分析することに意欲的になった。
そしてこの本はその行為を、さらに理論的・文化的な背景から補完するものになった。
著者は、「愛とは鏡」であると表現する。
すなわち、近代制度(経済関係とジェンダー関係により形作られる制度)の中で自己が陥りがちな「罠」を増幅する装置となっている。
私は日々、自分で選んで誰かを愛したり、あるいは誰かから不機嫌になったりしているつもりでいながら、実際は、私の目の前に存在する、私の与しない資源や状況のもとで、その状況になっている。
ブルジョワは、個人的な父への憎しみや家庭問題への怒りを、彼女自身の精神分析として表現するばかりでなく、家における女性の立ち位置、ジェンダーロールや父権性をテーマにユーモラスなイラストを作成したり、かつてヒステリーは女性の病気とされていた偏見を打破することを意図した「ヒステリーのアーチ」を作成した。彼女自身の歴史に根ざしたトラウマは、実は彼女自身の素質や選択のみで解釈が完結する類のものでは決してなく、家庭、社会、時代にひそむ問題であると捉えていたことを示している。だからこそ、彼女の作品は今なお、フェミニズムの観点でも根強く評価されているのだろう。
まとめると、ブルジョワの作品は、個人史と社会構造の二面性から、愛に傷つく自分自身の精神分析を回し続けた結果と見ることもできるかもしれない。
社会学は婚活市場の中を浮遊する自分をどう救うのか
私は最近街コンに参加するようになって、またomiaiというマッチングアプリも並行するようになって、自分がれっきとしたアラサー女性として婚活市場に組み込まれたことを体感した。
先に述べたように、婚活とは、今までのように娯楽としての恋愛を楽しむものではなく、将来を共にする相手として「適した」人物を相対的に採用し、採用されることを目指す、きわめて資本主義的なシステムである。
アプリや街コンは、まさにこの本で指摘される、「愛の経済化」や「デジタル時代の影響」を、全面的に投影した存在であることは、ここまで繰り返し述べてきた。結果として、愛を「選択肢」として提供し、恋愛が代替可能な消費の一環に感じられるようになっている。
私は今、自分が抱える婚活での失敗体験や、日々感じるモヤモヤは、個人的な悩みではなく、婚活中の私たちはみな同じ時代の犠牲者といえるかもしれない、と考える。
社会学が私の婚活を解決してくれるわけでもない。だがまあ、少なくとも、ちょっと広い視点から、悠長に時代の犠牲者ぶるくらいで、ちょうどいい日もあるだろう。なぜなら、私の価値は本来、別に恋人やパートナーのいる / いない、恋愛している / していないで、上振れたり下振れるようなものではないはずなのだから。そんな変動の仕方は、株価くらいで十分なのである。
傷つかないことのポジティブとリスク
ところで、この本には書かれていなかったことで、日々実感することがある。
婚活に注力し始めてから、私は愛に傷付きづらくなった。
もちろん、今後、パートナーと関係が深まっていけば、愛情がうまれて、それゆえに傷つく可能性もあるだろうが、すくなくとも、選択的恋愛の過程において、私が情緒を揺らがすことは、ほぼない。
私はこの状況を、たんに「冷めた恋愛観にシフトした」と捉えていた。ある意味では、「大人になったんだなあ」という、成熟と合理性を獲得したようにすら自負していた。しかし、この本を読んだ今、私の現在の恋愛観は、システムの反映として捉え直すこともできるだろう。
私が傷つかなくなった理由は、きっと過去の経験と現代的な恋愛構造の両方に根差している。
かつては叶わない恋に夢想して、それだけで涙を流せた私は、もう、自分に不満を抱かせる相手はハナから除外する。脈がなければ潔く諦めて次へいくし、自分にとって違和感を覚える言動があれば、傷つくこともなく平気でブロックすることを厭わない。
結婚相手の候補を選ぶ婚活において、理性的になった、あるいは防衛的になったということは、メリットとも言えるかもしれない。表層に惑わされたり恋に恋することもなく、冷静な判断に繋がり、賢明であれるかもしれないからだ。しかし一方では、私がほんらい切望し、価値を見出してきた「愛」を喪失することでもある。その愛は、客観的にみれば未熟なものであっただろうし、私をおおいに傷つけてきた代物であり、決して私を幸せにしてきたものではなかった。しかし、その経験の中で私は幾度となく過去のトラウマ、恋愛的傾向と向き合わざるを得ず、家族にも友人にも言えない傷を受け、掃き溜めとして言語化することで乗り越えてきた、その事実をいま反芻する
時代の犠牲者、という言い方は、なんだか被害者じみていて笑えてくるが。
ただ、私が愛により傷ついても、逆にもう傷つくことがなくなっていても、その状況をすべて自分のせいであると、自惚れないことだ。
そして、今後も反復脅迫により、同じテーマで傷つき続けるのかもしれないが、そういうとき、私にはnoteに書くという手段があることを忘れないでいよう。