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デリカシーの無さは罪なのか

【福岡地裁】男子生徒の前で男性教諭が女子生徒に「生理ですか」など、違法と認定
判決によると、女性は朝の健康観察で体調不良を訴えた際、男性教諭から聞かれ、PTSDが発症。一方で裁判長は、発言による発症の予見可能性はなかったと判断し、賠償責任は退けた。

https://news.livedoor.com/article/detail/22748535/

少し前にはなるが、このニュースなかなかすごい。Twitterでも炎上していたし、人によって感想が分かれるあたりを見ると、こういったテーマは今ちょうど発展途中なのだな、と思う。
あなたはどう思っただろうか。「当然違法にすべきだ」「そういう時代だから仕方ない」「いや、ちょっとそこまではやり過ぎでは…」「大袈裟だ」
色々あると思う。
私がまず抱いたのは、「ここまで来たか」という率直な驚きだった。

先日、知り合いの女性がこの話について、やれやれ、といったふうにこう話しているのを耳にした。「私が学生の頃なんかはこんなの普通だったし、なんとも思わなかった。大袈裟よ!」
だが実際に男性生徒たちの前で「生理ですか」と言われたのは、なんとも思わなかった貴女ではないのだからナンセンスだ。
とはいえ多くの人は、この類のもやもやを経験しているのではないか。つまり、こういった「生理に対するデリカシーのない言動」について、不条理や不快感や、あるいは慣れや許容を経てきているのではないだろうか。

たとえば私の学生時代には水泳の授業が数日間あって、女子生徒は生理の時は入れないので休んでいた。すると自動的に男子や男性教師から「生理中」と認識されたし、「本当に生理なのか?(ズル休みじゃないのか?)」と詰められたこともあった。それなりの進学校で内申点が重要だったから、「生理とはいえ、プールに出席しないと成績を下げざるを得ない」と教師に言われた友人もいた。
あるいは比較的仲の良かった男友達の中には、親しさをいいことに、私が少し機嫌がわるいと「え、生理中?笑」とネタにしてくる人もいた。彼に悪気はないだろうし、なんらかの思想や意図などを持ち合わせていたとも到底思えない。ただの「デリカシーがない男」だと思った。
こうした経験を経て今思うのは、自分はこの類の話題においてデリカシーのない言動を受けた時、「そういうものなんだ」「そういう性格の人なんだ」と、経験則で受け入れてきた(受け入れざるを得なかった)、ということだ。その中で、だんだんと違和感を飼い慣らしていった、ということだ。

近年社会的にセンシティブなキーワードに、「ハラスメント」がある。セクシャルハラスメントでは受け手の主観が重視される。同じ言動に対しても、人によってセクハラと感じるか否かの感受性は違う。今回の、「生理?」という発言について、セクハラと思うかどうかや、どれほど傷つくかというのは、相手との関係性やシチュエーション、言動の雰囲気はもちろんのこと、そもそもそう指摘されることに対する耐性やその人の経験則にも由来する、という意味で極めて主観的な問題だ。

だが一方で、そもそも「生理」は恥ずべきものではない、という認識の再確認をする試みも最近はよく聞くようになった。今年の東海テレビの公共キャンペーンCMは「生理を、ひめごとにしない。」というテーマで反響を呼んだ。
実際、生理というのは人間の女性にとって当たり前の、文字通り「生理現象」だし、それは人間が生殖を目的の一つとする動物であるがゆえの基本的な生態機能に過ぎない。排泄同様、大っぴらに扱うべき話題ではないと思うが、当たり前のことながら、生理という現象自体は決して「恥ずかしいもの」ではないし、それに伴う苦労や不便について社会全体として理解していくという積極的な姿勢は、ジェンダーの平等論の観点からも望まれている。だが実際の日常シーンで、生理中であることをひめごとにしないのは無理なケースもあるので、それについては「察する能力」、いわゆるデリカシーが求められている。「ひめごとにしない」方向へ向かうと、オープンな話題となって、一部の人にとってはデリカシーのなさに繋がりうる。これは難しい。なぜなら、認識の不足や誤認ゆえにデリカシーのなさに繋がっているのであれば、教育の問題と言ってしまえるが、「生理は普通のことだ、隠すべきことでもない」というスタンスで行った発言もまた、結果として誰かにとっては「デリカシーのない言動」に集約しうるからだ。ここには、女性側に生理を「ひめごと」化することを経験則として当然のこととし、自分の経験に即して「デリカシーのない」言動への違和感を飼い慣らしているという背景があるように思う。

だが今回のニュースで、法に抵触するとなると、デリカシーのなさは罪にもなりうるということだ。こうなっては事の重みが変わってくる。「デリカシーがない奴」は、今やモテないだけではなく、違法となりうるのだから。
教師や上司なんかは特に白羽の矢が立ちやすいので、軽率に生理を話題にしづらくなるだろう。

この潮流は、ポリコレを取り巻く現状全般に通づるものがある。
多様性の尊重が叫ばれて久しい現在、性自認や障がい、差別問題、あらゆるマイノリティへの配慮が、過度の言葉狩り、炎上につながるケースをよく見るようになった。そこでは、「その言動が真に差別的か、差別を意図したものと言えるか」という客観的な振り返りはなされない。あくまで、「自分は傷ついた!許せない」という被害者意識、主観的な主義主張と、それを取り巻くその他大勢の傍聴者たちの圧倒的な社会的感情(多くの場合それは不快感か正義感に由来する)により、問題は大々的に矢面に立つのである。

トランプ元大統領の就任前の発言で、以下のようなものがあった。

「私はクリスマスが大好きだ。だがクリスマスの文字はもうない。ハッピーホリデーばかりになった。クリスマスはどこへ行った。私はクリスマスが見たい」

これは、クリスマスという言葉はキリスト教文化の言葉で、他宗教の人間を排除するため、ハッピーホリデーという言葉に置き換わったという背景に対するコメントだ。つまりトランプ元大統領は、ポリコレ的配慮に対する無配慮なコメントを公に発信する数すくない権力者であり、だからこそ、行き過ぎたポリコレに対する違和感を持つ保守層などに受けている。しかしこの「クリスマス」の排除は、実のところは非キリスト教信者への配慮などではなく、アメリカ文化からキリスト教色を排除していきたいという左派勢力の目論見がポリコレを表層的に纏って正当化したという構図が指摘されている。

「いや、クリスマスの呼び方なんてどっちでもいいやろ。生理の問題とは全く別やろ」と思う方もいるかもしれない。だが、この現象は、多様性を尊重するあまりポリコレが幅を利かせて文化に圧力をかけ同質化させていくという現象であり、その背後には現象を真に正当化させたいパワーが存在する可能性をも示している。宗教色の排除により、無宗教へ。男女の区別を表面化させず、ジェンダーレスへ。性的な表現をタブー化し、清潔な表現へ。こうした文化、社会の「フラット化」は、ポリコレの普及、肥大化の潮流と決して無縁ではない。

それだけでなく、ポリコレはキャンセル・カルチャー(過去の言動を遡って糾弾する文化)の興隆にも寄与している。
例えば、2017年以降、ハリウッド女優たちを中心にブームになった「#MeToo運動」。過去のセクハラ被害を大々的に告発し、何人もの男性がセクハラ疑惑で糾弾、裁判前に社会的に抹殺された。糾弾された男性たちも告訴に立ち上がり、泥沼論争へ突入した。
そういえば日本でもつい最近、俳優の香川照之氏が、週刊誌報道で過去(2019年)に女性へのわいせつな行為があったことが明らかになり炎上した。もちろんセクハラやわいせつ行為は、デリカシーうんぬんの余地もなく明らかに違法だ。
だが、昨今をとりまく違法のジャッジメントと、取り巻くSNSの言論空間そのものには、常時もやに隠された共通の性質があるようだ。

多様性について、今、デリカシーという側面から考えたい。マイノリティへの差別や偏見を取り除くためにポリコレが要した人間のセンシティビティが、今、従来「デリカシーがない」と表現される主観的かつパーソナルな性格気質を、政治的に、社会的文脈の中で問題化する時代となった。それ自体は社会的要請である。引っかかるのは、その担い手が「多様性」とか「正当性」といった文句を纏った「なにか」であり、混沌とした言論空間を背負うのは、その存在には関与しない、ただすこしセンシティブで感情豊かな、正義感溢れる匿名大衆なのである。

自身の体験や経験が紛らわせてきた判断では、客観的にジャッジすることが難しく、つい感情論が暴走するということが往々にしてある時、ひとまず立ち止まって、自問することが重要ではないだろうか。

私が許せないことはなんだろうか、なぜ許せないのだろうか。
彼らの「敵」は誰なのだろうか。なぜ、それは「敵」なのだろうか。と。



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