月を買った、或いは私の願望を買った。
ずっと欲しかった、月の間接照明を買った。
2020年の#買ってよかったもの にも書きましたが。これ本当に素敵なんです。点灯すると月面がリアルに浮き上がって、本当に月を手に入れたみたい。
ブックライトには少々暗いけれど、白色の月にも、黄色の月にも変えられる。(私は暖色の黄色蛍光の気分が多いです。)
年内に引越す予定の為、断捨離をしながら部屋を整理している最中なのに、気付いたらポチっていた。
この前の、楽天スーパーセールで。
「あったら気分が上がりそうだけど、無くても問題ないものリスト」が、私にはある。
月の間接照明はそのリストの筆頭だった。
この月の灯りを眺めながらいま私は、「持たない暮らし」というブームについて考えている。
これはいっときの流行というよりは、現代社会の変化に順応して私たちのライフスタイルや生き方、消費行動に対する価値観を変質させてきた、それが表層化した氷山の一角だと思う。
シェアリングエコノミーや、レンタルサービス、サブスクのプラットフォームが流行っているのも、その現代社会の潜在的ニーズや価値観の揺らぎとの連動だろう。
#ミニマリスト #シンプルな暮らし といったハッシュタグが流行る中、それに憧れるのは私も例外ではない。実際、物欲フリーなマインドは私の理想と親和性が高い、とも感じてきた。
私は昔から、欲しいものが何かと聞かれても、ぱっと答えられない。全て欲しいのかもしれず、でももっと必要なものは他にある気がするし、或いは、必要なモノなんて、じつは無かった。
とはいえ、持たないことがブームであっても、それは流行に過ぎない。つまり、よく考えれば(よく考えずとも)、「持たないことが正しい」というわけでは決してない。当たり前だが、物欲は悪ではない。
断捨離信仰に対するシンパシーに対して、危うい新常識に惑わされそうになるが、断捨離の持つ「本質の見極め」という行為にこそ価値を見出すべきだろう。
不要なものは持たないべきだ、と言う…だが、肝心なのは、その「不要」の価値観を、自分軸で判断することだ。
すべての価値観は人間的なものに過ぎない、とニーチェは言った。まさに、物欲や消費行動との付き合い方もそうだ。要、不要の価値観は「人間的なものに過ぎない」。
例えば、今年も消費行動を煽動した、以下の現象。
バズっているコンテンツを手に入れる。持て囃される最新ガジェットの為に並んで手に入れる。話題のミューズが使っていると公言すればそのコスメが売り切れる。流通薄が情報として流れれば転売ヤーがこぞって横行する。ダイエットに効くと宣伝されればスーパーからキャベツやら納豆やらが消える。コロナに効くと言われればドラッグストアからイソジンが消える…なんてこともあった。
資本主義社会におけるプロモーションに煽動された、操られた物欲。要、不要の判断軸の存在しない物欲を目の当たりにするたびに、あまりに人間的で恐ろしいと感じる。
──私がいまを生きていくなかで、欲しいもの、「必要」と判断するもの、固執するものは何か?
そう考えながら、年末の引越しに向けて、私は部屋に存在する凡ゆるモノたちを仕分けしている。
そうすると、実用性があるか、頻繁に使うかと言われたらそうではないのに、それでも捨てられない…というものは、やはりある、と気づく。
カバーが擦り切れるくらい聴いたハイフェッツのシャコンヌのCD。真夏の夜、初デートで着たっきりの、小花柄のワンピース。もう一生会うことは無さそうな当時の友人と撮ったプリクラ。17の誕生日に母がくれた猫のブローチ。ロンドンで一目惚れして購入したものの、数回しか使用していない深紅のルージュ。現像していない(もはや何のデータか不明な)大量の「写ルンです」。忘れられない作品と出会った写真展の切り離し済チケット。写真や手紙も年賀状なんかもそう。
もっといえば、デバイス上のメッセージや写真や、記憶といったものさえ、もう今の私にとっては不要な…自己啓発本らしい言い方をすれば、「不要なものとして勇気を出して捨てた方が、新しい自分にアップデートできる」「ソレに対する執着を捨てれば自由になれる」とされるものたちがある。
そういったものたちは、これからの私を創っていかないけれど、今の私を創っているものたちである。
それらを仮に全部捨てる、ということは、経験と過去に裏打ちされた自己のみを残すことを意味する、といえるかもしれない。
思えば、過去との精算というのは、往々にして「その象徴となるモノとの決別」と同義だ。
振られたら泣きながら元彼のメアドを消したり手紙やら写真を燃やす、なんて光景は、私が幼少期からデフォルトだった。いわば「恋心の断捨離」として典型的な気がするその解決思考は、「現代人が断捨離を掲げて本当に捨て去りたいモノ」の輪郭を浮き彫りにしているように感じる。
根底にあるのは、自分を停滞させるもの=悪、という無意識下の方程式だ。それは、思い出、執着心、過去といったものは柵(しがらみ)であり、それを乗り越えることで人は「成長」できる、「新しい自分」になれる、という、資本主義的先進国の現代社会が夢想するイノベーション思考と容易にリンクする。
勿論、失恋して元彼の写真を捨て、せいせいした!とスッキリした気になり、次の恋にいく原動力に変換させるという、精神的な切り替えとしてポジティブな作用はあるだろう。
あるいは、連絡したくてももう絶対できないようにアドレスを消すのだ、なんていう、切ない覚悟の結果として消す場合もあるだろう。
だがここまで考えたところで、私は分からなくなってきた。未練の何が悪いのだろう?
数ヶ月前にはバレンシアガの新作バッグが欲しくてボーナスで買おうとか企んでいても、今はもう、サンローランの2020A/Wの新作バッグの方が欲しい。なんてことはザラである。
歳下の可愛い女の子となんとなくデートをしたが、いまいち楽しめず、その夜友達と飲んでいた時にたまたま合流した歳上の会社員と飲むも、同等につまらない…だが敢えていうならばこの薄いハイボールよりは昼間のカフェラテの方がましだ。
なんてこともザラである。
つまり、この流動的な世界で、皆が商品やモノの互換性を認識し、個体差こそあれ、人間を含めたあらゆる生物も無生物も、形式的には互換可能だという仄暗い予感を感じ取らざるを得ない。
そのような中で、どうしても素敵だから欲しいと思えるもの。それを身につける自分を諦められなくて思わず買ってしまったもの。もう使わないのにそれがもつ記憶故にどうしても捨てられないもの。
…なんて存在を持つのは、むしろ物凄く!幸福なことなのではないか?
未練ってじつは物凄く、私にとって価値のあるものなんじゃないか?
もう会えないのにどうしても忘れられない人や、もう伝えられないのにどうしても燻る言葉と同じように、特別なモノもまた、すべて記憶や願望と結びついている。その記憶や願望の断捨離、という行為こそ、何を残し、何を捨て、何を選択するか、という自分のアップデートの核となる。
記憶や願望の賞味期限、消費期限はいつまでなんでしょうね。
いつまでそのまま、保存できるのでしょう。
いつまでそれを認識していられるのでしょう…。
劣化したり美化したり消失したりさせず保持する、ということが一番難しいものなのかもしれない。
記憶や願望を必死に丁寧に、守り抜くための執着心。
私はそこに、私をかたちづくる意思、みたいなものを、今かんじているのです。
さあ、ダンボールにものを詰めていかなくちゃね。2021年の私と共に、生きていくものたちを。
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