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落ちこぼれシニアのリベンジ読書~『二人の稚児』谷崎潤一郎著~

「煩悩を捨て切れず、情欲に溺れた千手丸」と「煩悩を克服した瑠璃光丸」の二人の様子を通じて、現世における「煩悩」について問われている作品であると思う。
 
そもそも「煩悩」とは何か。
注解によれば「悟りを妨げる様々な欲望」のことである。もっとわかりやすく言えば、「人が生きる時に感じる苦しみの原因となるもの」のことをあらわす。
ただ「煩悩」は、高僧が長い年月かけても簡単に断ち切れるものではない。
しかも同じ期間修行しても、心持ちや血筋によって「機根」は個人ごとに異なってくる。
「機根」とは、仏の教えを受ける能力、ひいてはセンスの違いとでもいうべきだろうか。
千手丸と瑠璃光丸の違いは、ここでいう「機根」によるところが大きいようだ。
 
例えば仏教では「来世の果報は現世の修行によるもの」という考え方が基本である。
その教えに純粋だったのが瑠璃光丸である。
(引用はじめ)
「まろは女人の情けよりも、やはり御仏の恵の方が有り難い」
「まろは、この世で苦労する代りに、後の世で安楽を受ける積りだ」
(引用終わり)
 
そんな言葉を発する一方で、仏の教えに無分別であった千手丸に対して、厳しい言葉も残している。
(引用はじめ)
「千手丸が現世の快楽に耽りたいと思うなら、独りで勝手に耽るがよい。それで来世は無間地獄に真っ倒まに落とされて、無量劫の苦しみを忍ぶがよい。その折にこそ自分は西方浄土へ行って、高い所から彼の泣き喚く姿を見おろしてやろう」
(引用おわり)
 
当初は「煩悩」に対して反発心を抱いていたという千手丸も、結局は情欲に溺れて酒池肉林の中。
谷崎の作品には自分を模したクズ男がよく登場するが、この作品の中で言えば、煩悩の真っ只中にはまっている千手丸こそが谷崎をあらわしているのではないだろうか。
もっとも谷崎が煩悩を断ち切ろうと努力するかは別問題である。多分、浮世暮らしから離れようとはしないと思うが。


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