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ワクワクリベンジ読書のすすめ~『ヒロシマ・ノート』大江健三郎著~

難しかった。というか、重かった。石牟礼道子の『苦界浄土』を彷彿させる、得体のしれない「重さ」が読み始めから心にのしかかってきた。
この「重さ」は何なのか。そんな思いを感じながら読み進めた。
 
読み終えて浮かび上がってきたのは「ヒロシマ」「広島的」であり、その背景にある「絶望」と「威厳」というキーワードである。
そもそも「ヒロシマ」とは。なぜ「広島」でないのか。これは比較的容易に理解できた。
つまり原爆の威力と、それにより被った人間的悲惨を世界に発信するためのもの、と考える。同じ文脈では「ナガサキ」も同じだろう。
ただ「広島的」のとらえ方は、想像を絶する出来事に対するものであるため、判断に迷った。
絶対的に言えるのは、広島の方々の強さであると思う。
「広島の人間が、その孤独な内部の悲惨にたちむかうにあたって発動する忍耐力」(岩波新書P9)「その悲惨を克服しつづけるということがどういう困難な過程であったか、それを克服しつづけた広島に、どのように新しい人間の思想があらわれたか」(P94)
「あの広島にみちみちた威厳ある人々はどこからきたのか? しかもかれらの威厳は単純な威厳ではない」(P98)
「人類のかつて体験した最悪の絶望の時を、生きのびる希望が存在したのである」(P130)
絶望を感じながらも、原爆に屈することなく、「七十五年間、草が生えることはない」と言われる中でも夢や希望を失わず、威厳を持って前向きに行動されてきた姿には頭が下がる思いである。
 
宮澤さんの『死に至る病』の解説音声の中で、「具体的な人間存在に夢・希望を持てない人は『絶望』(=死に至る病)になりかねない。夢・希望を持つとは『〇〇のため』という具体的な人間存在を見出すもの」と学んだ。
当時の広島の方々の思いから言えば、「家族・被災者(患者)のため」であり「広島のため」。そして「平和のため」ということなのだろうか。
 
読み始めから感じていた「重さ」は「絶望」だったように思う。
正直、読了したいまも「重さ」は残っている。しかし、「広島的」であること、つまり「どんな境遇であっても夢や希望を失わないこと」という学びの中から「重さ」は随分薄らいできた。
それと同時に、平和のあり方・大切さについて改めて認識した次第である。

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