ワクワクリベンジ読書のすすめ~『虐げられた人びと』ドストエフスキー著~
久々のドストエフスキー。これまでドストエフスキーの作品は、主に背景が語られる前半に難儀するが、話の展開が進む中盤以降に思いっきりハマるというケースがほとんど。今回もそうだった。ひと通りの登場人物と、その関係性を理解することで、一気に読み終えた。
いろいろな視点で楽しむことができるというのが、この作品の特徴か。
今回の感想文は「『赦されるダメ男』(アリョーシャ)と『赦されないクズ男』(ワルコフスキー公爵)」というテーマで考えてみた。
まずは、なぜ「ゆるす・ゆるされない」の漢字に、「許」ではなく「赦」を使ったか。原作の言葉なのか、翻訳者の意図なのか。一般的には「許」なのだろうが、あえて「赦」を使った背景にはアリョーシャと公爵の「罪や不義理」が許されるべきか否か、という問題提起があると感じた。ナターシャをはじめとする登場人物の心の痛みに対する深い考察に目を向けることで、その違いは明確になる。
それでは、この作品にみる「赦される」ポイントは何だったのだろう。
アリョーシャを「ダメ男」とした点はそこにある。アリョーシャの場合は、自分の思慮の浅さや未熟さ、そして罪の意識に苛まれながらも、公爵に操作され結局はブレークスルーすることができない。
大昔の「丸出だめ夫」、最近で言えば「野比のび太」的で、気が小さく怠け者であるが、正直であり反省する心を持っている気持ちの優しい青年である。そういう男は母性本能をくすぐるのかもしれない
その逆が「クズ男」のワルコフスキー公爵。自己中心的で罪の意識がまったくない。回りに迷惑をかけることも厭わず、ひたすらに自己の欲望に突き進む。しかし頭がいい。表面的な繕いも天才的。ナターシャと会い結婚承諾のニュアンスを語ったシーンでは、読んでいるこちらも信じてしまったほどである。ある意味で、こういうキャラクター設定はすばらしいと思う。
一方で、そうした男たちの特性を見抜く女性(ナターシャ、カーチャ)の鋭さと見識の深さ。「ロシア女性の賢さ」とでもいうのだろうか。私が作品に引きずり込まれたひとつのポイントでもある。
形は違うが、幼いネリーにも空気を読む力がある。実は頭のいい娘なのだろう。母の手紙を携え公爵のもとへ行かなかったのは、仮に行ったところで先々不幸になると見通していたのではないか。
登場人物の関係性や心の動き。それが読者に深い考察を与えてくれる。いろいろイメージさせてくれる。この作品の大きな魅力であると思う。