「作話」という創作
「作話」という言葉をご存知でしょうか。
先日、知人が入院している精神科の入院病棟にお見舞いに行ってきました。
映画「カッコーの巣の上で」「シャッターアイランド」「レナードの朝」等を彷彿とさせる、入口に鍵が掛っていて、中からは自由に出られず、入場に許可がいるタイプの病棟です。
入院者の屯する食堂があり、知人とそこでコミュニケーションを取っていると、年の頃50代後半の男性が、話しかけてきました。
「兄ちゃん、ええのー。見舞い来てもろうて。わしには全然こーへんねやわ」
わたしへというよりは、その知人に向けて話しかけている感じでした。
そうなんだな、と思いました。
今度はわたしの目を直視して。
「兄ちゃん、こいつ普段全然しゃべらんねんで。声ちっそーてな。話しかけても全然聞こえへんねやわ」
そして、知人の顔を見て。
「なー」
「わしな、タカオ言うねん。西郷隆盛の隆に、夫のおでタカオな。背ー低いから、ヒクオ、ヒクオ言われてな。よー喧嘩しとったわ。兄ちゃん、ええな、こんなええ男に見舞い来てもろうて。なんかしゃべれよ、おい」
これはその後、食堂で一斉に介される夕食時、その「タカオ」さんの前に運ばれてきた食事に乗せられたネームプレートと、実際は毎日食事介護に来ている現奥さんの話から聞いて知ったのですが、彼の名前は「村田久夫」でして、「タカオ」は昔生き別れになった弟さんのお名前です。
「タカオさん、何でここに入院しているんですか?」
タカオさんが割と普通な感じで話しかけてきていたので、ここでは禁句に思えるような質問を普通な感じで聞いてみました。わたしの知人をこいつ呼ばわりするくらいだから、これくらいの質問したって罰は当たらないだろうという、少しの意地悪な気持ちもあったかもしれません。
「いやー、わっからんねやー。別になんか悪い事した訳やないんやけどな」
続いて話を聞いていると、幾つか興味深いことが話されました。
それこそタブーに思えてそれ以上踏み込んで話を聞けなかったけれど、タカオさんは、前の奥さんとは死別されていて、その、現奥さんとはこの病院で知り合って結婚に至ったとのことでした。
「ただな、ここはええぞー。決まった時間になったら弁当運ばれてくるからな。食うには困らん。心配せんでもええ。君の分も運ばれてくるさかいな」
運ばれてきませんでした。
夕食の時間となって入院者全員分の配膳が終わっても、わたしの目の前に夕食はありませんでした。当たり前ですけども。
一瞬本当に運ばれてくるのかな、と。見舞客用にも食事を振る舞う仕組みになっているのかな、と思えるほど、タカオさんの話し方には自信が漲っていました。タカオさんはもさもさと無言で、運ばれた食事を食べていました。その後、わたしの分が運ばれてこないことについて、全く触れませんでした。
「結婚は紙だけのことやさかいなー」
恐らく、タカオさんに嘘をついている自覚は全くありません。
彼は信じたいように事実を信じ、自分の中で納得の行くように理解して、今の人生と折り合いをつけているのです。そしてその折り合いを疑いなくわたしに話しているのです。
こういうのを「作話」と言います。
自分が納得できるように理解を創作するんですね。事実と、創り上げた折り合いとの関係性は断絶されて。あるいは時折事実が織り交ざって。
時は変わって数年前、わたしは当時付き合っていた女の子に振られました。
「私、馬鹿やけぇこういうことわからんのんよね」
という口癖の女の子でした。
ひいき目にもその子は別に、そんなに馬鹿ではなかったし、「わからん」の内容もさして難しくない、例えば加入している保険の話や年末調整の話や、今後のキャリアプランの話等々、少し踏み込んで考えれば理解できる、そして踏み込んで考えなければおよそ損や不利益を被るような類のことでした。
わたしは良くその彼女の口癖に対して、「君は馬鹿じゃない。しっかり考えて理解しようとすれば理解できるから、一つ一つ一緒に解決していこう」そう言っていました。根っからの善意だったし、愛する彼女を賞賛するつもりで。
彼女がわたしから離れて行くときの言葉はこうでした。
「馬鹿にされている気がする。しんどいから別れる」
自分が馬鹿だというレッテルを自分で貼ることで、面倒を避けられるよう折り合いを付けていた、そして、面倒を避けることでプレッシャ―を回避していたのだと理解しました。
馬鹿だから、やらなくて良いと。
やった方が良いという事実は、そんな折り合いの中で体よく煙に巻かれて。
馬鹿のレッテルを剥がされようとしていた付き合いに、しんどさを感じたと。多分そういうことでした。善意からの賞賛は、鋭利な中傷となっていたようです。残念ながら。
別に馬鹿でもないのに自身に馬鹿だとレッテルを貼ることって、タカオさんの作話に似てる。
ありもしない未来や虚栄を信じて猪突猛進することも、事実と反して馬鹿だとレッテルを貼って自分を制約することも、虚構の中で折り合いをつけて日々を過ごすことも、納得した毎日を送るという意味ではどれもたいして峻別ないのかもしれません。
自分の人生の折り合いの付け方って、きっとそういうレッテルや作話から出来上がっているんだろう。
それはきっと創作という名の人生だ、なんて思いながら、歯の無い知人が食べやすくみじんにされた食事を口に運ぶ様を眺めていました。