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心の機微に手をかけられる人を目指す
15年以上,続けているアメブロで,先日,これまで書いたことがなかった私的なことを記事にしたら,励みをいただいたり,共感していただけたり,思わぬご反響をいただきました(感謝)
人は,表に出さない(出せない場合や,出すまでもない,出したくないなどという場合なども含め)事実のほうが,圧倒的に多く抱えながら生活をしているのではないでしょうか。
私もその中の1人にすぎず,毎日,色々とあります。そう,誰にだって,毎日,何かしら心の機微があるはずです。
そうした心の機微は,力を入れずに流してみたり,あるいは,丁寧にすくい上げ,考え抜いたり,労るなど,自然でありつつも,手をかけてあげることが大切なように思います。
今日に至るまで,本やブログなどを通じて,人間関係やコミュニケーションについて,自分が感じていることを書かせてもらっていますが,経験とともに,少しずつ,物の見方と,受け止め方に変化もありました。
ですから,自ずと,その手のかけかたもバリエーションが減ったり,増えたりしていきました。
といっても,根本的なところは変わっていないのですが,自分という幹が,どれだけ苦しいことや,つらいことを受け止められるかという基準(幹の太さや状態)によって,心の機微の手のかけかたが変わってきたことを実感しています。
例えば,初めての著書を振り返ります。
この中には,「ネガティブな発言をポジティブ変換しよう」といったことが書かれた一節があります。
確かに,「疲れた→もうひと頑張りだ!」,「もう自分はダメだ→とりあえずやってみよう!」などという表現の変換は,聞き手には関係のないネガティブな空気感を出さずに済みます。
相手や状況に合わせて,不要なネガティブ発言は,あえて口にしない,態度に表さないというのは最低限のマナーでもあります。
一方で,「疲れちゃったよ」とか,「私って本当にダメだわ」という一言を発したいのに,「ネガティブ発言だからダメ」とばかりに,禁句のような扱いにしてしまってよいのだろうかとも考えるのです。
つまり,誰かのネガティブな一言を吐き出させてあげる役割を受けてあげることにも意味がありますし,また,自分が吐き出したい時に,受け止めてくれる人の存在もあったらいいなと思えるのです。
自分や誰かの悪口を言わないということを徹底されている人がいると,気持ちよく会話ができることも当然,あります。
ただ,どこか人間味が感じられないというか,少し味気ないようにも感じることもあります。
それは,どのようなときかというと,思わずネガティブな発言をしてしまった人に対して,完全にスルーして反応しなかったり,正論で「頑張らなきゃダメだよ」などという人がいる場合です。
巷で言われる「人の悪口は言わない」「人のせいにしない」などという立派な正論は,私たちの心を縛りつけているだけになっていないでしょうか?
もし,そのことが,「いい人」であるかのように見せるパフォーマンスになっていないか,気をつけけなくてはと思うのです。
正論や,上べだけの「いい人」を演じることで,私たちの心の機微を見失わないよう,ポジティブとネガティブの考え方や,使い方を含め,より柔軟的に捉えてみても良いのではないでしょうか。
考え方をやわらかくすることについては,こちらの本に書いています。
そもそも,「いい人」とは何なのでしょうか。
「頭がいい人」とか,「この人にだったら仕事を任せたい」,「この人と仲良くなりたい」と,思われる人になることは,相手から選ばれるという客観的な視点と,自分も,自分の生き方に必要な人とモノを選べる感覚が必要です。
自分も,相手も心地よく,ときに難題から救済できるような考え方を身につけるために,心の機微を丁寧にすくい上げる習慣を,今こそ見直したいなと感じます。
ご一緒にいかがでしょう^^