美術館巡りの備忘録 vol.1
美術展を訪れるたびに書きとどめていた短文を集めました。
まずは2016年から2020年まで。
☆デトロイト美術館展(2016/7/9~9/25 大阪市立美術館)
印象派あたりはお馴染みの画家の作品が並びます。目新しかったのは20世紀ドイツの絵画。直線的な構図と明快な色彩が心にストンと収まりました。
自動車産業の隆盛を誇った時代のデトロイトの栄華が偲ばれるエピソードも。チケットに印刷されていたゴッホの「自画像」と、最後の部屋に展示されていたマティスの「窓」。今では全米各地に作品が収蔵されているふたりの巨匠。そのふたりの絵画をアメリカ国内に最初にもたらしたのがデトロイト美術館、そしてこの2枚だそうです。頭にかぶったヘッドホンを通して鈴木京香が優しく耳元で教えてくれました。
☆北斎-富士を超えて-
(2017/10/6~11/19 あべのハルカス美術館)
昨秋、箱根の岡田美術館にて目を奪われたのは、どれも葛飾北斎の手になる作品でした。その筆致に宿る力にグイグイ惹きつけられる経験は2度目です。ゴッホの絵を初めて見たときに嫌いから好きにブンッと針が振り切れた引力を思い出しました。
北斎の描く作品はとにかく構図に矛盾がなく、しかも緻密で精密。細部まで描き切る根気はとても真似できる気がしません。混雑してなければ絵の前に立ち止まって隅から隅までもっと見ていたかったです。
細かく描き込まれた絵にはたくさんの色が載せられています。個人の所蔵品は百何十年の時を経て茶色く変色しているけれど、美術館の収蔵品はプロの技術が時間を巻き戻して鮮やかな色使いをも楽しませてくれました。
「天があと5年命をくれたなら、真正の絵師になれただろうに」と言い遺して90歳で天寿を全うしたと言われている北斎ですが、確かに80歳を過ぎてからの作品は一段と素晴らしく、もしも100歳まで生きたなら…と想像が膨らみます。
☆ディズニーアート展《いのちを吹き込む魔法》
(2017/10/14~2018/1/21 大阪市立美術館)
ディズニー映画の歴史と並行して、コピーやステレオサウンドといった技術開発の軌跡があることを初めて知り、ただ可愛い絵を見るつもりで足を運んだ軽率さを反省。ディズニーが見せてくれる夢の向こうにはウォルトから始まる数多の職員の情熱と技術が横たわり、それが90年に亘って人々を魅了し続ける引力の源に違いないと合点しました。
☆ボストン美術館の至宝展
(2017/10/28~2018/2/4 神戸市立博物館)
ボストン美術館の一番の目玉はエジプトの出土品です。今回も貴重な品々が最初のコーナーに展示されていました。そして次に充実しているのは日本と中国を中心としたアジアの絵画や工芸品。こちらは大作が何点も来ていました。もちろん19世紀ヨーロッパ、パルビゾン派から印象派あたりの巨匠の作品も。そして出口が近づくにつれアメリカの画家の作品、現代アート、写真をどうにか加工した作品など……目新しい作品が続きました。
☆ゴッホ展 巡りゆく日本の夢
(2018/1/20~3/4 京都国立近代美術館)
牧師を志していた青年が絵筆を執ったのは27歳の時。そして精神を病んだ挙句この世を去ったのが37歳。大きな名声と人気を誇る巨匠の短い制作期間に驚かされます。
☆ヒグチユウコ展CIRCUS
(2019/6/15~9/1 神戸ゆかりの美術館)
かなり独特で一種異様な世界観を持つ、画家で絵本作家のヒグチユウコ。目を背けたくなるようなグロテクスさがあるようで、何故だか目が離せない。むしろ吸い寄せられるように近づいて隅々まで目を凝らしてしまう。
☆大塚国際美術館(2019年 徳島県鳴門市)
陶板に焼き付けた名画のレプリカがずらりと並ぶ中に、米津玄師本人が描いたLemonのCDジャケット画のレプリカも収蔵されました。これらの複製画が作成されている工場は、NHKの連続テレビ小説「スカーレット」でおなじみの信楽(しがらき、滋賀県)にあります。
☆蜷川実花展 虚構と現実の間に
(2020/2/1~3/31 岡山シティミュージアム)
最初の一歩がすくんだ理由は四方の壁と床に広がる一面の桜に、作品を踏んでも良いのかというためらいではなく、床に広がる桜の上を歩くのは足元が不確かで心許なかったから。そして桜まみれの壁にはさらに四角く切り取られた桜の写真が何枚も掛かっているのです。
次の部屋は花、花、花…この部屋までは写真撮影OKだったので、僭越ながら素人のスマホでプロの作品を惜しげもなく撮影しました。
その次の部屋に入ると著名人の肖像が所狭しと壁を埋め、ここから先は撮影禁止。見たことのある顔なのに、いつもと違う個性を際立たせる演出がなされていて、尽きないアイデアと感性にため息をつくばかり。
最後の部屋は彼女の父親である蜷川幸雄が亡くなった日の思い出をつづる空間。手を加えることなく、ただシャッターを押しただけのような静かな写真が淡々と並んでいました。虚構と現実が何を指しているのかわかった気もするし勘違いかもしれないし…でも、その間とは?
今も余韻を引きずりながら考えています。