問題視をするのはいつも外野
忘れられない先生が沢山いる。小学校の担任、ピアノの先生、中高時代の世界史の先生、大学の教授…数えきれないほどの先生方に見守られて私は大人になった。感謝してもしきれない。
しかし、いつも思い出すと感謝と共に少し悲しい気持ちになるのが、小学校3,4年時の担任だった先生だ。
先生はスパルタと言われる程、教育熱心で、本物を見せ、努力をさせ、私たちの世界を広げようと様々な工夫をしてくださった方だった。へちまを育て、たわしを作ったり、蚕を育てて絹糸を作ったり、9月になると土嚢の積み方を訓練したり、冬には七輪をどこからか調達してきてお餅を焼いてくれたりした。授業もとても楽しかったのを覚えている。
そして先生が一生懸命工夫してくださるぶん、私たちにも厳しかった。低学年の赤ちゃんを引きずったままだった私たちは、まずは整列の練習をひたすら行った。あの時は、なんでこんなに毎日並ぶ練習ばっかりするのだろうと思ったが、今思えば先生が用意してくださる「生の体験」はとても時間がかかる。そのためには、皆がすっと動く必要があったのだろう。大切な場面で時間を使えるようにそれ以外のところは素早く動くよう指導されたのだと思う。よくよく思い出せば、先生がどれほど授業準備に時間をかけていたか分かるし、長期休暇明けにはいつも研修で出会った面白い先生の話をしてくださったので、生徒が休みの間も研究や研修を続けていたのだろう。
給食についても厳しかった。苦手な物をよけたり、友達によそわないように裏工作をしたりせぬよういつも見張っていた。苦手なものは少しでもいいから、きちんと全てを食べるように指導された。「なんでも食べられる人になろう。好き嫌いがなければ、いつでもどんな人とでも楽しく食事ができるんだよ。」と仰っていたのを思い出す。
もちろん授業中のお喋りなど言語道断である。今は体罰と言われてしまうのだろうが、私は何度も怒られ、叩かれ、廊下に立たされた。でも、そうでもされなければ気が付かなったほど隣の子とのお喋りに夢中だったのだ。一生懸命教えてくださっている先生から見れば、当然だと今では思う。100%私が悪い。しかし、それが先生の命取りになってしまった。怒られない生徒の母親たちが、先生の指導法を問題視して騒いだのだ。
その頃、私は家庭の事情で祖母と兄の三人で暮らした時期があった。そのため、連絡帳や宿題もきちんと出せなかったこともあった。すると先生は、少し早く登校するように私に言い、職員室の脇の部屋で音読の宿題やその他の保護者の確認が必要そうなことを全て見てくださった。きっと、厳しい指導も親の代わりにしてくださったのだと今では思う。あの頃、あの先生が担任になってくださって本当に私は幸せだったと思う。
私はいくら怒られても先生が大好きだった。叱られている方は、相手が気分で怒っているだけなのか、本気でこちらを見て怒っているのかがちゃんとわかるものだ。いつも全力で向き合ってくれる先生が私は本当に大好きだった。
けれど、まさか他の生徒の親たちが、しかも叱られたことなどない良い子たちの保護者が先生を学校に訴えているなんて知らなかった。両親が保護者会に参加をしていなかったし、仮にそんな話を聞いたとて私一人には何もできなかったと思う。
数年後、そのせいで先生が休職をしていると噂を聞いた。小学校3年生から毎年、暑中見舞いと年賀状を欠かさず出しているが、そんな噂を聞いた頃から直筆のメッセージがない、ただの印刷だけの年賀状になってしまった。お会いしたいと連絡をしたが、返事は頂けなかった。
あんなに素晴らしい先生はいないのに。そんな先生に直接、お礼と感謝を伝えられないままでいる自分を私は恥じている。
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