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幻惑する御金神社 〜もっともフェティッシュな...

黄金の鳥居

 ここ数年の話である。京都は御池通の少し北、二条城のちょっとばかり東の西洞院通に位置するとある神社に、観光客が押し寄せている。その社は特別大きいわけでも、有名人になにかゆかりがあるわけでもない。だがなにより、異彩を放っている。

 テレビに取り上げられたのか、はたまたSNSで火がついたのか。その神社には、数年前から観光客が増えてきた。御池通近くのマンションや個人経営の味わい深い飲食店に囲まれた区域に存在するその神社に人が押し寄せちゃったもんだから、「夜間は静かに」というような貼り紙が貼られる。それでも収拾がつかなかったのだろう、あろうことか警備員が動員され、列をなす参拝客は、もののみごとに整列。おまけに観光客は、その黄金の鳥居を写真におさめたい。近隣住民は西洞院通を歩くとき、顰蹙する始末である。

 「御金神社」(みかねじんじゃ)と名づけられたその神社は、どうも明治時代に建立されたようである。公式サイトによると、金山毘古命を主祭神としているらしい。

金山毘古命(かなやまひこのみこと)を主祭神とし、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つきよみのみこと)の三柱の神をお祀りしております。

金山毘古命(かなやまひこのみこと)は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の御二柱神の皇子であり、五元陽爻(天の位)の第一位の神として、金・銀・銅をはじめとする全ての金属類、鉱山、鉱物(鉱石)を護り給う神でおられます。

御金神社HP

 金山毘古命の日本神話における立ち位置はまったくもってわからないが、その祭神が明治時代に祀られたことには、意味を見出すべきだろう。なぜなら、明治国家の生誕とともに、日本は「近代化」の圧力に晒され、そのことが結果として、その祭神の地位を押し上げることとなったように思えてならないからである。

なお、天皇親政の建前がとられると同時に、天皇の統治は、遠き昔におけるように神道にもとづいて行われることが宣言され、祭政一致が標榜された。祭政一致とは、神国であるわが国の政治は神道に即して行わるべきであり、政治において最も重要なことは神を祭ることであるという思想である。

岡義武『明治政治史』上、146頁。

 いわば、天皇の権威に紐づける形で、日本神話の神々はその力を「回復」せしめられた。「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)としてのネーションを結束させるための、笑劇の演者として。カール・マルクスはこう述べる。

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。

マルクス『ルイ・ナポレオンのブリュメール18日』15頁。

麗しき排泄物

ミダスが求めたのは、かれが触れるものすべてを、かれに認められたものすべてを、黄金に変える力であった。かれが飲み物や食べ物を求めて乾きや飢えを癒そうとすると、それらが黄金に変わる。ミダスはこのことにただちに気づいて恐れおののく。山積みされた黄金が死を引き寄せることを知ったミダスは、ディオニュソスにみずからの願いを解いてくれるよう懇願した。神は、この呪いを解くためにパクトロス河の水で身を清めるように、とミダスに言う。そこから、この河には黄金がきらめくようになった。

G・ドレスタール=B・マリス『資本主義と死の欲動』94頁。

 ギリシャ神話のミダスは、黄金を求めるあまり、触れるものすべてを黄金に変える能力を手に入れた。黄金は、錆びることないその魔術的な輝きで、古今東西あらゆる人々を幻惑し続ける。であるがゆえに、「ユートピア社会」では、ときに金はちょっとイビツな使われ方をしてしまう。

金や銀でだいたい彼らは何をつくるかといえば、実に便器である。汚い用途にあてる雑多な器具である(これらは共同の会館においても、各個人の家庭においても同じように用いられている)。さらに奴隷を縛るのに用いる足枷・手枷の鎖である。そして最後に、罪を犯した破廉恥漢として皆に蔑まれている人間が耳につける耳飾りであり、指にはめる指環であり、首にまく鎖であり、さては頭にまく鉢巻である。

トマス・モア『ユートピア』125-126頁。

 敬虔なカトリックの法律顧問官であったトマス・モアは、当時のイギリス社会を痛烈に批判するため、「どこにもない場所」を指す“ユートピア”ということばを用いて、「理想郷」を描き出した。ユートピア国における金のつかわれかたは、ヒューモアに溢れている。とある外国使節が質素なユートピア国の民を驚かせてやらんとやってきたという挿話を、モアは活き活きと筆致で描く。

そこでいよいよ三人の使節が百人の従者をつれて乗り込んできた。従者の衣装はすべて絢爛たる色彩のもので、ほとんど絹ずくめであった。使節(故国では彼らは貴族であった)の方はどうかというと、黄金の衣装をまとい、大きな金の鎖をさげ、耳には金の耳飾り、指には金の指輪、頭には金の飾りに金の吊飾りのついた帽子、しかもそこには真珠や宝石が燦然と輝いているといった具合であった。何のことはない、ユートピア人の間でなら、奴隷を縛る責道具か、破廉恥漢に対する烙印か、それとも幼児を弄ぶ玩具類か、そのいずれかとしか考えられないもので着飾っているにすぎなかったのである。(…)そのためであろう、使節一行の中でも、一番卑しい、一番身分の低いものが国賓としてうやうやしく挨拶され、かんじんの使節の方は見向きもされなかったのである。

同上、128頁。

 ユートピア人の金に対する意識は、現代人からすると明らかに倒錯して見える。そこでは、金は所詮便器に過ぎないのだ。しかし意外なことに、中世ヨーロッパでは、排泄と金はアナロジカルな関係で捉えられていた。ドイツには、金貨を排泄する人間の像が存在するほどである(阿部謹也『中世の窓から』)。

金は排泄物になぞらえられる、もっとも麗しき汚物だ。

もっともフェティッシュなるもの

金は当初、太陽と月のように、配偶者の銀とともに天上に位置していたのだが、まずは神聖な性格を失って地上におり、独裁者として君臨するようになった。つぎには、中央銀行という内閣に支配権を譲り渡した立憲君主になるとみられる。共和制を宣言する必要はないとも思える。しかし、まだそうなってはおらず、まったく違う進路をとる可能性もある。金の支持者はきわめて賢明に、穏やかに振る舞わなければ、革命を避けることができないだろう。

ジョン・M・ケインズ『説得論集』117頁。

 未曾有の世界恐慌に直面したケインズがこう述べたとき、かれは金が神聖さを失い、「独裁者として君臨する」姿を目の当たりにしていた。その独裁者がもたらした禍いこそ、国際金融資本の急速なフロー、そしてそれらに起因する世界規模の恐慌の発生である。貨幣は金の力を背景に、世界中を駆け巡っては自己増殖し続ける。しかし、その虚実にひとびとが気づいたときに、貨幣を求めるひとびとが殺到し、恐慌が引き起こされる――。

 金本位制においては、貨幣を求めるひとびとのココロは、あの「麗しき排泄物」に結びついていたように見える。しかし、金との結びつきとは関係なく、そしてまったく別の方法で、貨幣という特殊な商品もまた、ひとびとを幻惑させるのである。

 古典派経済学では、貨幣は商品の価値を示すに過ぎず、さらにはその商品にかけられた労働力の総量を示すものでしかなかった。一般に「労働価値説」はマルクス主義の金科玉条だとされがちだが、その起源はアダム・スミスを父とする、古典派経済学の方にある。

価格の構成要素のすべてで、その真の価値をはかる尺度は、それぞれによって購入・支配できる労働の量であることに注意すべきだ。労働は、価格のうち労働にあてられる部分の価値をはかる尺度であるだけでなく、地代にあてられる部分と利益にあてられる部分でも、価値をはかる尺度である。

スミス『国富論』上(日経BP文庫)、91頁。

 一方のマルクスは、商品の価値をそこに費やされた労働力で算出するという単純化された立場には立っていない。かれは商品の価値を、他の商品との相対的な関係性の中で捉える。

価値としての商品は人間労働の単なる凝固物だとわれわれがいう時、われわれはその分析を通じて商品を抽象物としての価値に還元している。しかしそこではまだ、その商品に現物形態と異なる価値形態を付与することはない。それが変化するのは、一つの商品が他の商品との価値関係に置かれた時だ。他の商品と独自の関係をもつことによって、一つの商品の価値としての性格が浮かび上がってくる。

マルクス『資本論 第一巻』上(ちくま学芸文庫)、103頁。

 ある商品の価値は、ほかの商品がもつ価値との関係性によって決まる。例えば、魚1匹の価値は、トマト3個分の価値がある、といったように。あるいは、牛一頭の価値は、トマト30個分に比類されるかもしれない。この時はじめて、われわれはトマトの価値を介することで、牛は魚の10倍の価値をもつことを知る。ここで例示したトマトのように、商品の関係の体系から生まれてくる特別な商品、すべての商品の価値を単一化し、それらを表示する機能をもつこととなった商品こそ、貨幣である。

金が貨幣として他の商品に対面するのは、ひとえに金がすでに商品として他の商品に対面していたからにほかならない。他のすべての商品と同様に、金もまた個別的交換行為における個別的等価物としてであれ、他の商品等価物と並ぶ特別な等価物としてであれ、ともかく等価物として機能していた。(…)そして金が商品世界の価値表現において、ついにこの地位の独占を勝ちとるやいなや、金は貨幣商品となる。

同上、139頁。

 こうして貨幣は誕生した。なにもそれは、金がひとびとを幻惑させる輝きをもつだけで誕生したのではない。むしろ重要な点は、貨幣があらゆる商品の価値を、ほかの商品との相対的な関係の体系を通じて数量的に表すことができる点にあり、決して貨幣そのものに価値があるからではない。なんてったって、われわれがありがたがるのは、金属で鋳造された硬貨よりも、紙っぺらに偉い人の顔が印刷された紙幣なのだから――。

 ところで見逃してはならない点は、貨幣が商品の価値を示し、商品流通の手段としてのみ存在しているわけではないということだ。むしろ重要なのは、貨幣退蔵それ自体が目的となり得ること、さらには、その自己増殖的な性格である。その際貨幣は、おのずから市場に飛び込み、みずから増殖を成し遂げるかのような性格を有している。

かつて金は、財の世界に付与された象徴的価値の過剰分を一身にとり集めた幾分か彼岸的な存在であり、象徴的価値体系の実体的な中心、質的なテロスであった。それゆえにこそ、人々は金を壺に入れて退蔵したのである。それに対して、近代資本制における貨幣は、もはやスタティックな象徴的価値体系の頂点に腰を落ち着けてはいない。自ら、徹頭徹尾此岸的な運動の只中にとびこんでいき、いわば地上に現れたブラック・ホールとしての欲望の流れを一方向に吸引し続けるのだ。

浅田彰『構造と力』218頁。

 こうして貨幣は、欲望をプリミティヴに吸引し続ける。マルクスはそれを、貨幣のフェティシズムと呼んだ。貨幣は常にひとびとが追い求める対象であると同時に、絶えず市場に再投資されることで、増殖しゆくアメーバ的な存在なのである。

 いまや御金神社に押し寄せるひとびとは、なんのために持っているのかわからないのに欲しいという、おカネがもつ不思議なフェティシズムに囚われている。金山毘古命というプリミティヴな存在が、資本主義という笑劇を演じるために呼び戻されたことは、いかにわれわれが「もっともフェティッシュ」なる貨幣の幻影に囚われているかを思い起こさせられる。

金(カネ)というものの唯一の欠点は、使うとなくなってしまうということである。これは実際、困ったものであって、使うからなくなるというので使わずにいれば、なんのために金を持っているのかわからない。

吉田健一『おたのしみ弁当』69頁。


もっともプリミティヴで、もっともフェティッシュな方法で…。

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