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【感想文】東海道五十三次/岡本かの子

『ループ作楽井さくらい憧憬偏執論しょうけいへんしゅうろん

本書『東海道五十三次とうかいどうごじゅうさんつぎ』読後の乃公だいこう、愚にもつかぬ雑感以下に編み出したり。

▼あらすじ

独創性の無い妻が東海道に行って夫の薀蓄うんちくを聞かされたり作楽井といういわゆる「東海道ループガチ勢」に出会ったりした思い出を名古屋で振り返った後に桑名行きの汽車に乗って妻はなんか色々考えたんだよっていう内省録。

▼読書感想文

だめだ、この本かなりムズイ。かの子ちゃんの感性についていけない。お手上げだ。
[感想文・完]

▼余談 ~「憧憬」および「脈」が意味するもの ~

ループ作楽井が東海道の品川宿~大津宿間を繰り返す理由は、
<<目的を持つ為め>> および <<憧憬を作る為め>>
との事である。ではなぜそれを東海道に見出したのかという疑問が生じるが、これに関しては、作楽井および語り手「私」の夫が語る、

<<不思議なことはこの東海道には、京へ上るという目的意識が今もって旅人に働き、泊り重ねて大津へ着くまでは緊張していて常にうれしいものである。だが、大津へ着いたときには力が落ちる。>>

<<「この次は大津、次は京都で、作楽井に言わせると、もう東海道でも上りの憧憬の力が弱まっている宿々だ」>>

という発言における「力」という言葉から考えるに、古今東西の旅人による目に見えない憧憬の念が東海道には点在している、という考えが作楽井にあったからだと思われる。例えば、夫が語る重衡しげひらの東下りの話、天柱山、吐月峰とげっぽうれんの句、一休の鉄鉢、頓阿弥とんあみの木像、鈴川、松並木の左富士といった京都に至るまでの道すがら、各時代の先人達により残されたものに「憧憬」なるものの念が込められており、それが作楽井に、<<何度通っても新らしい風物と新らしい感慨にいつも自分を浸>>したため、彼は東海道を抜け出せなくなったものと思われる。

以上の「ループ作楽井の憧憬偏執論」が本書の結末に及ぼす効果を説明する。まず、語り手「私」が最終章においてふと作楽井の発言を思い出し、

<<自分のような平凡に過した半生の中にも二十年となれば何かその中に、大まかに脈をうつものが気付かれるような気のするのを感じていた。それはたいして縁もない他人の脈ともどこかで触れ合いながら。>>

と自身を内省しており、上記における「大まかに脈をうつもの」とは、作楽井の言う「憧憬」を指している。というのも、彼女は自身の独創性の無さに挫折&後悔しており、それを息子に託そうとしたりと、<<自分の胸から出るものを思うまま表現できる人間>> への願望が強いからである。つまり、憧憬である。作楽井は <<憧憬を作る為め>> に東海道を旅し続け、訪れた各地で <<縁もない他人の脈>> といった、各時代を生きた先人の憧憬に触れた。そんな作楽井に感化された彼女は、己の独創性の無さを克服すべく新たな憧憬(=あるべき自分の姿)を目指して再び東海道へ向かった。そう解釈すると本書のラストは一見不可解なように見えるが実は前向きな締めくくりではないかと思えてくるのである。

といったことを考えながら、私はかの子ちゃんに告ろうかどうか迷っている。

以上

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