【感想文】少年/谷崎潤一郎
『光子といっしょに!レッツ!コンバイン!』
本書『少年』読後の乃公、愚にもつかぬ雑考以下に捻出せり。
▼あらすじ
▼雑考① ~ 少年達の無意識 ~
本書は「学校」「塙家の日本館」「塙家の西洋館」という三つの舞台から構成されており、各場面における四名の登場人物(私、信一、仙吉、光子)のパワーバランスが次第に変わっていく(※前述のあらすじ参照)。この内、三人の少年は全編を通して無邪気さが残っており幼稚ではあるものの、その単純な思考からなる不定な性的欲望(の様なもの)が窺える。この少年達は無邪気ゆえ、特定の目的を持たない性的関係を無意識に実践している。例えば、狼ごっこにおける「私」の、<<奇怪な感覚は恐ろしいと云う念を打ち消して魅するように私の心を征服して行き、果ては愉快を感ずるようになった>> という表記がそれに該当しており、完全な言語化には至ってはいないものの「なんか知らんけどイイ感じ」程度にとどまっている。
▼雑考② ~ 少年と光子の相違点 ~
少年達と比較して光子だけが異端である。なぜなら、彼女にとってこの少年達に辱められ、そして辱めることは、自分自身の性的欲望を満たすものという自覚があり、特定の目的からなる行動を取っているからである。それは「狐ごっこ」の場面から徐々に現れはじめ、<<おかしな事にはあの強情な姉までが、狐退治以来すっかり降参して、信一ばかりか私や仙吉にも逆うような事はなく、時々三人の側へやって来ては、「狐ごっこをしないか」などゝ、却っていじめられるのを喜ぶような素振りさえ見え出した。>> と味を占めており、前述した様に、四名は異質な遊びに快感を得たという点において共通しているが、目的を有するという点において彼女だけが異なる。そして光子の変態性は西洋館の場面で発揮される。
▼余談 ~ 西洋館の効果 ~
西洋館における乙女の半身像、蛇の置物、光子の肖像画とされた油絵、西洋のマッチから発する青白い光、それらは「私」にとって非現実性を帯びて肉迫しており、次いでヌッと現れる「油絵の通りの光子」の姿、人間燭台と化した仙吉に慄きながら自身も燭台となり果てる「私」の有様は不思議と下品・悪趣味な印象は受けない、自分の場合は。もし、並の作家がこの場面を書いた場合、読者にしてみれば「ウソくせー!」「下品ざます!」に終始することになり、つまり、サドマゾ趣味を皮相的に描くにとどまると思われる。が、著者・谷崎潤一郎が描く虚実あいまみえる表記の連続により本書の文学性は担保されているのである。
といったことを考えながら、本書の完成度は『コジコジ』『やくざ考』『エースをねらえ』に匹敵する出来である。
以上