学校における習慣化が孕む、思考しない子供を育てるリスク
僕の一週間の振り返りに対して、ありがたいことにこんな助言を頂いた。
「学校のシステムを習慣化していくのは成長なのかな?」
これは、以下の投稿に対する質問だと感じている。
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朝の準備一つとっても、節々に成長した姿が見れる。
何も言わずに自分の席を見つけられて、座れることにも感動した。
黒板に朝の準備の流れが、写真やイラストを使って説明してあるからできるところもあるだろうけど、朝の準備を子供たちが自発に動いて、ほとんどの子がランドセルをしまうところまで、自力でできるようになった姿を見て、
「あっ成長してる!」
と、心踊った。
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一見するとこれらの変化は、今までできなかったことをできるようになっているので、成長と捉えることができる。
その一方で、習慣化して動けるようになることで、思考する機会や、試行錯誤がなくなっている可能性もある。
確かに。
行為をすることで満足してしまいがちになるが、そこで子供たちが思考する機会を担保するか考えなければならない。
朝の準備について、僕なりに考えていることは、朝の準備のようなしなければならないことを終わらせることが目的ではなくて、自分で朝の準備をすることを目的にしていることがある。
できる限り、朝の準備は手を貸さないようにしている。
子供が準備をする際に、ランドセルをひっくり返したり、物を落としたり、やり忘れていることがあったりするが、基本的には助けない。
助けなくても彼らはできるのだ。
彼らを信じて、任せる。
そうしていくことで、自分で試行錯誤し、ランドセルはどこに置いたらいいのか、どの順番でやればスムーズにできるのか考えるようになる。
また、段階を踏んで彼らに自由を与えて、試行錯誤できる余地を与えていくのも意識している。
初期は、パワーポイントのスライドで、やるべき内容を全体に示しながら全体で揃えて準備を行った。
しかし、次の日からは、黒板に手順のスライド全16枚を示しておき、自分で思い出しながら動いてもらった。
そして、金曜日はスライドを6枚に減らし、やるべきことだけ示し、作業順は自分で考えるようにした。
型がないと型破りにはならない。
型がない上で好き勝手やると形無しに陥ってしまうケースも多い。
素地を養った上で、挑戦させる。
でも、助けない。
こんなところを意識してはいるが、まだ子供が思考し続けられる設計にはなっていない。
もう少し悩んでいこうと思う