文筆家の視点
こんにちは!
ランケミストtamacoです。
先日、大学に行きましたらですね、本の無償譲渡の箱がありまして。
「ご自由にお取りください」って書いてあったので、遠慮なくもらいました。
ああいうのって、なんで「ご自由にお取り」しずらい雰囲気醸し出してるんですかね…?
まあ、それはおいといて。
私が持って帰った本というのが
かの有名な小説家、谷崎潤一郎の『文章讀本』。
目次見て、「あ、これ、おもしろいやつだ」ってなりました。
ことばオタクがウハウハになる内容満載でした。
今回は、その中の「西洋の文章と日本の文章」という節を
皆さんにご紹介したいと思います。
以下、ほぼ引用です。
谷崎が私の言いたいこと全部言ってくれているので。
わざわざ私が言葉を足さなくても
いや、むしろ足さない方がスラスラわかると思います。
さすが谷崎!(どの口が言ってんだよ…笑)
なお、現代では特殊記号になっている表記は、現代の表記に改めています。
谷崎は、この節の冒頭で、以下のように「西洋文の長所の取り入れ」に懸念を示しています。
全くその通りだと思います。
1975年出版のこの本ですでに谷崎は「西洋文の長所を取り入れすぎ」と警鐘を鳴らしていますが、それ以降から現在に至るまで、「西洋文の長所の取り入れ」はとどまるところを知らぬ勢いで加速しているように私は思います。
続いて谷崎は、「語彙が少ない」という日本語の欠点を挙げ、それを補うために漢語を動詞化したり形容詞化したりすることで対応した、と説明しています。
さらに現在(1975年当時)では、漢語だけでは足りず、そこにカタカナ語(タクシー、タイヤなど)と翻訳語(科学、文明など)まで加わっている。もちろんコミュニケーションの用を足すのに差し支えない範囲で国語を富ますのは結構なことだ、と指摘したうえで、以下のように語ります。
「言葉の力を頼り過ぎ」という谷崎の指摘は、まさに私の問題意識と一致します。
言葉を尽くせばわかり合えると信じて疑わない私たちの言葉に対する態度を今一度、見直す時が来ているのではないかと思われてなりません。
かのヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』でこう語っています。
ほんとに、この現実を語り尽したい、というのは人間の根源的欲求のような気がしますが、語りえないのですよ…
いくら言葉を尽くしても。
そこを認めない限り、傲慢にもすべてを語り尽せると勘違いしている限り、ことばを大切にすることも、ことばの感覚を磨くこともできないと思います。
はっ!
すみません。
ついつい熱が入ってしまいました。
どうも、tamaco、ことばを軽視し雑に扱い蔑ろにする態度に、どうしようもなく怒りを覚えてしまうのです。
熱が入ってしまったので、脱線します。
私、ここ10年くらいの「論理的に説明する」とか「わかりやすく伝える」とか「簡潔に話す」いう流れに辟易しているというか、それこそ谷崎のいうように「言葉の力に頼り過ぎている」と感じるんです。
詳しくはまた他人の言葉に頼ります。
若新さんが私の思いを代弁してくださっているので、ぜひ、視聴してみてください。
まあ、とにかく、誰にでも誤解なく通じる伝え方を探求するのは結構なことですが、いくら考えても伝わらない相手には伝わらないし、伝えたつもりが伝わっていなかった、ということなんかザラにあるし、伝えたいことと伝わったことがズレていた、なんて経験も過去を振り返ればいくらでも出てくるかと思います。
それから、「論理的に」「わかりやすく」「簡潔に」しようとすると、必然的にそぎ落とされてしまうことばが出てきます。その3点を重視するあまり、言葉を尽くしても語り尽せない複雑性を嫌悪し、排斥しようとしているのが、現代の多くの人々のことばに対する態度なのではないかと思えてなりません。
私はそれがとても悲しい。
言語化することの重要性がこれでもかと祭り上げられている一方、
ことばにならないもの、自分の内面世界をうまく言語化できない人が
どんどんわきに追いやられ、ないものにされていっている。
ことばの面でも、世界がどんどん均質化・画一化されていっているかのようです。
いや、現にそうなっているのです。
人々がここまで言葉を重視すると同時に、ここまでことばを軽視する時代がこれまでにあったでしょうか?
私は、ことばオタクの端くれとして、このことばの均質化・画一化に
抗っていきたいと考えています。
いうなればそれこそが、ランケミアカウントを立ち上げた目的です。
一人ひとりが自分自身のことばの世界を大切にし、それを他者と共有できる社会。そんな社会を作っていけるよう、私は私なりのやり方で、ことばの奥深さ、楽しさ、おもしろさを伝えていこうと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。