夜のキャンパスにて【3】
【1】はこちら→ https://note.com/tamaacalicocat/n/n72918b10dffb
【2】はこちら→ https://note.com/tamaacalicocat/n/naab2d04c307a
未成年にゼミなどの合宿で飲酒や喫煙をさせたことが問題になって、新聞記事になったりする今ではとてもありえない事だろうと思うけれど、もう20年以上前の事なので高校を卒業するとお酒も煙草も暗黙の了解で自由だった。
もっというと、高校生が学校の文化祭の打ち上げと称して、普通に居酒屋で飲み会を開いていた時代だ。大学生になってどちらも経験が無い者は少数派だった。煙草を自販機で買う為のややこしい年齢証明のカードなんて無かった。ビールやワンカップの日本酒は酒屋の前の自販機で買えた。
そんな頃のことだから、キャンパスの中でもかなり自由に煙草は吸えた。海苔の缶のようなサイズの四角い赤の缶の蓋に煙草サイズの穴を開けて細い足が付いているような灰皿が校舎の中にも外にもあちこち置いてあって、休み時間や空き時間のできた学生は自由に煙草を吸っていた。
さすがに大学の生協が運営する学生食堂でお酒は扱っていなかったと思うが、学生街なので安い居酒屋や焼き鳥屋は至る所にあり、19:30に始まる7限ともなると毎週赤い顔で講義をする教員までいた。
いいのか悪いのかはさておき、呑気なだったなと思う。
赤い缶の灰皿はキャンパスの廊下の隅にもあった。特に夜学の時間帯は、休み時間になると、皆、煙草を吸いながら雑談をしていたので、廊下は煙草の煙が充満して、向こうが見えづらかった。廊下の照明で煌々とてらされる煙草の煙で窓から見える夜の景色も白く霞んでいた。
私は余り煙草は好まなかったが、なんとなく廊下をうろついていると誰かから声が掛かって煙草を渡されるので、一緒に吸っていた様な記憶がある。珍しい銘柄を手に入れた者は自慢気に友達に配っていた。ジタンを吸ったのはその頃だと思う。あれは正解には吸っていない。私が煙草をあまり吸わないのを知っていたから、皆して煙を吸い込まずに、口でふかしてすぐ出すように言ってくれたからだ。ウッカリ吸い込むと強いから大変だよと教えてくれた。私もたまにマルボロのメンソールを買って、吸いきれない分は人にあげたりしていたはずだ。
色々な人となんだかたくさん話をしていた気がするのに、どの話の記憶も煙草の煙幕の向こうで霞んでしまい正確には思い出せない。
その人が詩人だと知ったのはそんな廊下での雑談の中でだったと思う。
作品の載った雑誌も見せてもらった。前衛的な作品が多い中で、その人はとても分かりやすく素直な詩を書いていた。でも、言葉のひとつひとつがとても繊細で選び抜かれている事はよく分かった。だから、分かりやすいのだ。私は言葉選びが苦手だった(今だって苦手だ)。詩のイメージを正解に伝えるのはとても難しい事だと思っていたから、すごい技術だなと驚いた。
そういう人だったから、演習の課題の発表の出来もずば抜けてよかったのを覚えている。先生から1人に1編、萩原朔太郎の詩が課題に与えられる。それを自由に解釈しなさいというという課題だ。その人はいくつもの資料を使いこなし、独りよがりでなく伝わる発表をした。2〜30人いたおぼえのある演習クラスでそんな発表ができたのはその人1人だった。
同じ課題に自分で取り組んでみて感じたのは、先生の解釈という手掛かり無しに自由にやる難しさだった。図書館で朔太郎に関する書物の検索をかけて、なんとか課題の詩の解釈を幾つか見つけても、情報が断片的すぎてひとつにまとまらなかった。結局、独りよがりな発表をして自分で自分にがっかりした。
今になって思うと、煮詰まったところでどうしたらいいかその人に訊いてみればよかったのだと思う。そんなことすら思いつかない位、まだこどもだったのだと思う。
演習の発表の出来が素晴らしかったと感想を言ったら、それはそうでないとさすがに…と密かな矜持を口にした。いつも控え目だったから、そんなことを口にするのはとても珍しかった。珍しすぎて覚えている。
しかし、残念なことに私が素晴らしい技術だと思った言葉選びの巧みさゆえ、その人の詩人としての評価は壁にぶつかっていた。分かり易すぎるのだそうだ。歌謡曲の様だと揶揄されていた。その何がいけないのか、わたしには全く分からなかったけれど。
その頃、なぜ書くのかという話をした覚えがある。例の煙草の煙で霞む夜のキャンパスの廊下でだ。その人もいたし、同人誌で書評を始めたり何か色々活動を始めた人たちが集まっていた。私は学歴ロンダリングの準備で忙しく、それ以上にテーマを見失っていた。いつか書こうと思っていたテーマで何をどうやっても追いつけそうもないハイレベルの書き手を見つけてしまったのだ。書く気を失っていた私は黙っていたと思う。皆の前向きな話を聞いている方が面白い。
その時、どういう繋がりでそうなったのかは覚えていないが、その人は言っていた。まあ色々あるけれど、とにかく書きたいから書くんだよね。他人の評価は関係無いよねと。まずは書きたい気持ちがあって、止むに止まれず書くんだよねと。いいものが書けるかとか関係無いよねと。書きたい衝動があるかどうかだよねと。
あれから随分時間が経ってしまい、書くよりも目先のあれこれをさばいてきたけれど、ふと何か書こうか迷った時に思い出したのは、その人の言葉だった。どこにたどり着くとか、どういう評価とか、そういうのは関係無い。書きたいから書く。
それだけだ。
問題は他人じゃない、自分なんだ。何の役にも立たない言葉を綴る私を思い出が励ましてくれる。