敬意の源泉
畏くも、「僕が尊敬する2人の戦士」について書かせていただいた。
すると、ちょっとビックリするほどの反応があって(というか実際にビックリしたのだが)、改めて、羽生結弦選手が「人々に与えてきたプラスの総量の大きさ」を感じている。
そして、TwitterXには、たくさんのあたたかいコメントや引用リツイートをいただいて、今度は「羽生結弦選手を応援するみなさん」から、僕が勇気をいただいている。
(本当はひとつひとつに、お礼のコメントを書きたいところだけど、ここでまとめて、ということになりそうです、ごめんなさい。でも、お気持ちはひとつずつ受け取っています。ありがとうございます。)
いただいたコメントの中に「敬意が感じられた」というのがいくつもあって・・・それが最高に嬉しかった。ちょっと涙が出るくらいに。
連日WEBニュースやSNSで飛び交う、慌しい喧騒から少し離れたかった僕は、
「敬意」って何だろう?
「敬意」ってどこから来るのだろう?
立ち止まって、ゆっくりと考えてみた。
そして、気づいたことがある。
僕が羽生結弦選手に「敬意」を抱いているのは、
僕自身が「プレイヤーでありたい」と願っているからである、と。
not 2 mension, 僕はフィギュアスケーターではない。スケートシューズはもっていないし、氷の上では10秒も立っていられないだろう。つまり羽生結弦選手のようなフィギュアのプレイヤーになりたいわけじゃない。(なりたくても無理なのも十分承知の上でね)
でも、僕にも僕なりのフィールドがある。僕なりの作品がある。僕なりに伝えたいこともあるし、僕なりに空気を変えていきたいこともある。
サイズも、影響力も、全く比較にもならないけれど。
でも、それでも、
「視える景色を更新してみたい」というプレイヤーとしての矜持と、「少しでも長く活動してたい」という現役としての切望。
これらが思いっきり敬意のベースになっているのだな、と。
静かなところで僕は、羽生結弦選手から何かを学び、少しでも自分のものとし、願わくば学んだことをより良い形にしてみたい、と思っている自分を発見した。
そして、こうも思った。
これは、僕を導いてくれているプリンスに対する敬意に近いなぁ、と。
プリンスはこの言葉通り、「やってみせてくれた人」だから、彼の音楽、言葉、哲学は「やる人」にこそ深く刺さるし、本質を理解できる。机上の理想論ではない。
ここ数日、いろんな友と電話で話したり、メッセージのやり取りをしている中で「二重作さんの羽生結弦選手に関するnoteを読みましたよ」と伝えてくれる。
みんな自分がブランドのプレイヤーたちで、「羽生選手はハンパない」とそのパフォーマンスを絶賛する(プレイヤーなら問答無用に感じるはず)と同時に、濁流のような現況に「あの才能が潰されてしまわないか」を危惧していた。
そんな中、嬉しすぎるオファーがあった。
「パフォーマンス医学の観点から、羽生結弦選手について記事を書いてほしい」という内容だ。
ぎょえー、マジかー、責任重大じゃないかー!
専門性から考えて、僕にできることは「アスリートとしての羽生結弦選手」というところがメインになると思うけど(そしてそれが嬉しいのだけど)、背伸びしても戦えないから、こうなったらワクワク、ドキドキ、たのしんで執筆させていただこうと思う。
(進捗や掲載情報はTwitter X @takuyafutaesaku にてお伝えしますね)
もちろん、敬意の源泉を大切に、
感謝を形にして参ります!
PS まだ出版して1カ月だけど、既に「書いてよかったー」と思っています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?