戦争と悪魔の残酷について

さて、今日は少し疲れる文章になりそうだ。
天気は快晴。
昼時点で気温は30度以上。
戦時下であるのに、私の街は平静を保っているようにみえる。
それもそのはず。
この国で、いま世界が戦争のただ中にあると了解している人間は極めて少ない。
別にそれは、構わないが。
戦争の定義は、私なりに簡単に噛み砕くと、人と人の対立・分断、利権のための規制・殺戮・破壊であるが、大衆はいつも、目の前で自分の愛する人がなくなるまで、いま自分が狂気の中にいることを理解できないようにみえる。
あまりに多くのことが憂いていた通りに起こるので、しばらく静観して期をみて色々書こうと考えていた。
今もそうであるが、しかし、沈黙の姿勢を維持するのも容易くないので、今日は少し書く。

改正国家戦略特区法が成立した。
いわゆるスーパー・シティ構想である。
これについて口数を多くする必要はない。
科学の見せかけの明示性に浴した単なる遠回りである。
人間はどこまで自分を欺いていられるか、語る価値もない尊大矮小な国家の夜明け。

次にアメリカに関する話題が2つ。
トランプ大統領のTwitterにファクトチェックが適応されたそうだ。
脳を麻痺させて話を聞けば、特大な影響力を持つ人間が、事実を語っているかどうかは、民間の思想に関わる重大な判断基準になるだろうから、これは妥当性のあるシステムだとも言えよう。
しかし、そのまま裏を返せば、ファクトチェック自身は、はたしてどのように事実を検証するのか。
事実は何のための事実で、さらに言えば、それが本当に真の妥当性に裏打ちされて出てくるものなのか。
ファクトチェックは、いかにも現代らしく、そも話の根本に目を向けていない。
世のどこに真正の「事実」なるものがあるのか。
事実とは、何か。
それが問われずにファクトチェックが向かう先は、他でもない完全なる歴史改竄と個人の抹消、純正の言論統制に違いない。
日本では、ある純粋な女性の命が、言論統制のプロパガンダにされているが、これも一人一人が自分の発言をよく考えない結果だろう。
誹謗中傷と同じ仕組みで話しているのだ、みんな。

もう1つは、ある黒人男性の死。
ミネソタ州ミネアポリスで、25日に白人警官によって黒人男性が殺害された。
その件で、現在抗議の声が広がり、アメリカ国内では、ますます人種間の対立の溝が深まっている。
黒人男性を取り押さえた警官は、彼が「息ができない」と、必死に訴えているにも関わらず、膝で彼の首根を地面に抑え続け、そのまま窒息死させた。
警官4人がクビになったそうだが、それがなんだ。
この白人の警官は、黒人男性を殺したその膝で、今日も教会の祭壇に向かって膝をついているかもしれない。
「主よ、私の罪を赦したまえ」と。
この件に関しては、私は、多少感情的にならざるを得ない。
私は自分でもいつも、勝手に(黒人の友人がいるわけでもないのに)黒人の肩を持ちすぎると思っているが、昔から彼らを他人とは思えない。
白人やアジア人よりもずっとシンパシーを感じるのだ。
こういうことを言うと、それがまた人種差別に繋がるとか、また、前世があるとか、そういう話にも流れるので、言うのには相当な配慮と覚悟がいるけれども。

しかし、実際に歴史を見ろ。
白人がどういう人間の集まりだったか。
すべての白人を糾弾するわけではない、話がそういう短絡的な方向に取られると大変困惑するが、私が言っているのは歴史の記録している問題についてだ。
彼らは端的に言って、レイシストでエゴイストで卑称な自意識の絶対性に、運悪く絡め取られた不幸な人間の集団だ。
私が言う彼らというのは、先に言ったようにすべての白人ではない。
なぜなら彼らは、同じ白人でさえ、自分たちとは違う動物だと考えているからだ。
私は決してすべての白人を一緒くたに非難するものではないので、「彼ら」を白人全体と分けて、こう呼びたい、Poor Rich White(邪悪な白人)と。
一部の特権的で悪魔的な白人が、同じ白人からも仕事を奪い、借金地獄に陥れ、その感情を扇動し、黒人を迫害させる。
あるいは、その権威の威のおこぼれを頂戴した人間が、その醜い自己顕示欲と自分の全能感を示すために、低劣としている人間を屠殺する。
黒人が黒人を虐殺した歴史にも必ず邪悪な影が潜んでいる。
彼らは、誰よりも嘘をつくのが上手く、真実をでっち上げる能力に秀でているからである。
これは勇気を出して言えば、もはや歴史が決定的に裏付けている彼らの本性ではないか。
あらゆる安直な誤解と同意を避けるために念を押して明言するが、白人全体を嫌悪せよ、と言うわけではない。
実際、私には、ふた回りほど歳の離れた白人の友人がいるし、彼は私を「My third son(三人目の息子)」と、冗談ながらに呼ぶ。
あるいは彼だって、深い付き合いではないから、その本心はわからない。
が、ここで私が言いたいのは、私は個人的に白人を憎んでいるわけでもなんでもない、ということだ。
多くの善良な白人がいることをも承知しているし、彼らと友情が成り立つことも十分に可能だと信じている。
だが、彼ら(白人全体)と同じフリをして、隷属と殺戮の歴史を繰り返してきた凶悪な人種(Poor Rich White)がいることは、絶対的に見逃すことはできない。
あるいは、それはPoor Rich Human-like evil(人間に似た悪魔的な種族)と、包括的に捉えた方が、より誤解を避けられるかもしれないが。
また、白人による黒人への不当な暴力ばかりが強力なバイアスを受けて報道されているだけで、黒人による白人への不当な暴力も溢れている、という意見もあるだろう。
これに関しては、ある意味重要な意見であるし、ある意味もう少し大きな視点を持つべきである。
というのは、それがいかに正当な主張であろうとも、結果的に人々の分断を招く意見は危険である。
この意味では、私も非常に気を付けなければならない。
しかし、もう一点に関しては、報道されていない潜在的な黒人への迫害が、いまだにいくらあるかを考えているのか、という反論がある。
ミネアポリスの男性の死は、たまたまカメラが捉え得ただけである。

Human-like evilはどこにでも潜んでいる。
私たちは人間の同一性と尊厳を守るために、人間の形をしているものは、皆等しく友であり、大切にすべき人格だとするが、実際の事情はもっと複雑である。
そういう一般大衆の善意に満ちた(ある種安易な)意識こそ、人間に似た悪魔たちは利用する。
結局、同じ人間の皮を被っていても、「私たち」とは決定的に違う生き物というのは、存在するのだ。
例えば、京アニの放火犯。
今日、事件から10カ月を経て、犯人の容態(自身も全身に火傷していた)が落ち着いてついに逮捕され、容疑を全面的に認めたようである。
報道機関のカメラが、輸送される男の様子を捉えていたが、やっぱりそこに映っていたのは、人間ではない何か、だった。
移動ベッドの上でマスクをつけ、火傷に爛れた顔で報道カメラの方をじっと見つめる眼、あれは人間の眼ではない。
あれは尋常な人間ではない。
人間の形をした黒々しい何かであり、法で裁ける種類の生き物ではない。
私たち(他者を傷つけると良心が痛む人間)とは、まったく別の人間の皮を被っただけの悪魔だ。
決して、たとえで悪魔という言葉を使っているわけではない。
そのまま本当に、人間ではない邪悪な存在という意味で、悪魔と言っている。
私は、あれを、私たちと同じ人間とは思えない。
感情論だけで語っているのではない。
じじつ、ニュースを見た私の眼に映ったのは、まぎれもなく人間ではない何か、人間の姿をした化け物だったのだ。
あの化け物に関して、私はいかなる心理分析も、理解もできない。
根本的に話の通じる相手ではないのだ。
同じ人間ではない。
この件に関しては、それ以上言いようがない。

こんな苦々しい文章は書きたくなかったが、こういうこともやはり必要だろう。
世の中はあまりにも偽善と嘘と無知・無関心、思考停止で虚ろになっている。
自分で考えて意見することと、何かを信じ込んで意見することは、まったく別種のことだ。
少しでも多くの人が、自分の正しさを、正しく行使できるようになってほしい。
私も内省をやめない。
考えるのをやめて、何かを信じ過ぎたとき、人はいくらでも残酷になれると知っているから。