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正しさを求めて…

英語科教育法Iの振り返り。第13回。
履修者4名が毎回一人が模擬授業をする。今回で全員が3回の模擬授業をしたことになる。

模擬授業の概要

今回の模擬授業は中学1年生を想定し,ジェスチャーゲームを通して英語を使わせる授業。

8人の生徒役が4人ずつの2チームに分かれて,ジェスチャーをする順番をチーム内で決め,ジェスチャーを見て何をしているところかを英語で言い当てる。言い当てる側は自由に相談可能だが,実際に解答するのは次にジェスチャーをする生徒という縛りがある。このルールによって「全員が英語を話す」ことを狙った。

教師のWANT: 「文で答えてほしい」

今回模擬授業をした学生は,これまでの模擬授業では「単語だけでもいいからとりあえず話してみよう」という声をかけることが多かった。彼女は「間違っていても全然OK」「何か言ってみよう」という声掛けを徹底する姿勢がかなり板についてきた。
この授業では活動の説明の際に野球のジェスチャーをしながら"She is playing baseball."という例文を示し,「現在進行形」を使ってジェスチャーの内容を言い当てることを促した。その際「出来れば文で言ってほしい」「単語だけじゃなくて文で言えたらOK」と「文で答える」ことを繰り返し求めていた。
正直,彼女のこれまでの指導のスタンスについては前述の通り「単語でOK」「何か言ってみよう」という感じだったので,彼女が文で答えることを求めたのには少し意外に思った。が,それは(以前の模擬授業で対象とした)小学生ではなく中学生に対する授業ということと,もう一つこの授業の根幹にあった「表現力を豊かにする」という目標から導かれた彼女の判断のようだ。

生徒のTHINK: 「多分違うんだろうなぁ」

ゲームが始まると2チームがそれぞれ同時に(ランダムに引いた紙に書かれている)色々なジェスチャーをして,答えを言う担当の生徒中心に皆が口々に色々なことを発する。そのある種のカオスの中で先生が生徒の発言を聞いて,ジェスチャーを(文で)言えていたら「OK!」と声をかけ,次の人のジェスチャーに向かう。
先生は序盤,「もう一回!惜しい!」等と言って,出来るだけ正しい文で英語を話させようとしていたのだが,ゲームが盛り上がるほど両チームから「先生聞いて!」「言ったよ!」と先生を左右に振り回す声がどんどん上がり,徐々に先生の判定が雑になる。
結果的にゲームとしては「正解」が増えるし,展開がスピーディーかつエキサイティングになった。

一方,検討会では生徒役の学生から自分達の英語の発話に対して「ingって何だ?」「(合ってるか分かんないけど)これでいいんだ!」「(先生はOKって言ったけど)多分違うんだろうなぁ」といったTHINKが共有された。

学習者は結構正しさを求めている?

前述した通り、今回の模擬授業を担当した学生は比較的「正しさ」に拘らず英語をまずは言ってみることを大切にするのが基本スタンスだ。それは「正しさを求められると萎縮して、何も話せなくなるだろう」という考え方に基づいていると思われ、その考え方は基本的に間違っていないと思う。

私も昨年度までは中学生と高校生、今年は大学生に英語を教えているが、誤解を恐れずに言えば、決してすごく学力の高い学生を見ているわけではないということもあって、授業の中で文法や文の正しさについて話す時間は意図的に短くしてきた。
この記事を書いている今日、1年生の技能科目の授業で授業アンケートを個人的に実施し、その中で以下のような質問と、それに対する回答があった。

アンケート自体の回答数は18名。うち1名はどれも選ばなかった。

画像を見て分かる通り、文法の詳しい説明を半数以上の学生が求めている。半数近くの学生は求めていないということも言えるが。

スピーキングやライティングへの不安を軽減するために「間違っててもいいよ」と声をかけることは一般的と考えられるし、受容技能を含め、「英語で出来た」という感覚を大事にするために意味がある程度伝達・理解できていれば文法(特に形式面)の指導はあまりやらないという先生は少なくないだろう。

しかし、この模擬授業の検討会や私の授業アンケートから示唆されるのは、学習者は案外「正しさ」を求めているということ。
当たり前のことなのかもしれないが、私にとっては結構考えさせられる気づきだ。

「正しさ」を求めない教師のバックグランド

ここまで、「正しさ」を強く求めない学生と英語教師としての私自身のスタンスを重ねながら解釈してきたが、実はその授業観に繋がるバックグランドは全く違う。
学生は今でも文法は苦手で、文法説明になると「あ、分からん」となってしまうことがある。(キレの悪い文法説明を聞いている時、生徒役としてなのかリアルなのか分からないような悶々とした表情をしている。笑)
そんな彼女は自身の文法嫌いが大いに手伝って、正確さを求めない今のスタンスに行き着いていると思われる。

一方、私は中学生の頃から英文法がやたらすんなりと理解できて、高校生の時には『デュアル・スコープ』という分厚い英文法参考書を愛読書として読み込み、更にその説明に納得がいかない箇所には自分が先生だったら生徒にどう説明するかという視点から解説を書き込みまくった。大学でも特に3年からは英語教育学ゼミと並行して、語用論や機能構文論を主に扱う英語学ゼミや、人文科学部の(ガチ)統語論ゼミに顔を出すなど、英語学を多少は勉強した。
そのような文法大好き人間な私は、「ほとんどの生徒にはこういう文法オタクっぽい話はウケないな…」と学生時代の塾バイトで何度も何度も思い知らされ、徐々に「文法の話は生徒のモチベーションを削ぐ」と過剰に思い込んでいたように思う。

「正しさ」を求めることは決して悪いことではないし、英語を「正しく」使いたいと思っている学習者も少なくない。
壁になるのは「正す」という行為へのちょっとした抵抗感かもしれない。
頑張れ自分。

今回の記事はいつも以上に構成もちゃんと考えず、授業のことを思い出しながら、思いついたことをつらつらと書いてきたのだが、最終的に授業観の裏にある学習者としてのバックグランドの話に至った。
全くの想定外だったが、これが無理にでも何か書いてみることの意義かもしれない。


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