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曖昧なものを受け入れるということ

論文を書くことは、私にとって大切な軸だ。
でも、その過程でふと立ち止まることがある。
物事はいつも、はっきりしないままだ。

進んでいるのか、停滞しているのか。
うまくいっているのか、それともまだ足りないのか。

そんな曖昧な状態に出会うと、
「答えを出さなければ」と焦る自分がいる。
人はきっと、曖昧なものを嫌うのだろう。
分からないことに耐えるのは怖いから。
だから、名前をつけて安心しようとする。
「これは楽しい」「これは辛い」
そう分けて考えれば、少しだけ楽になる気がする。

でも、曖昧なものは分けられない。
分けようとすればするほど、
その本質から遠ざかってしまう。


あるとき、思い切ってその曖昧さを受け入れてみた。
分けるのをやめて、ただそのまま味わうことにした。

すると、心の奥に静かな感覚が広がった。
それは、諦めに似た気持ちだった。

「どうせ分からないのなら、このままでいいじゃないか。」
そんな風に思えたとき、少しだけ自由になれた気がした。
曖昧さは、混沌そのものだ。
良いも悪いもなく、すべてが溶け合った状態。

私たちはその中で揺れている。
「最高だ」と思う瞬間にも、
「最悪だ」と感じる何かが隠れているし、
「最悪だ」と感じる中にだって、
確かに「最高」が潜んでいる。


曖昧さをそのまま受け入れると、
そこには「答えのない安心感」がある。
分ける必要のない自由がある。
物事はただ存在しているだけなのだと気づく。

楽しいも、悲しいも、
「こうでなければならない」も、
全部ひっくるめて、
混ざり合った今がある。


私はこれからも曖昧さと向き合うだろう。
論文を書く中で、生活の中で、
その都度「答え」を求めたくなるだろう。

でもきっと、曖昧なものをそのまま受け入れるたび、
その中心にある静けさに戻れるはずだ。

「諦め」に似たその感覚は、
私にとって、自由の始まりなのかもしれない。

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