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さよなら、バンドアパートの初号試写会

先日、「プロの作家からしたらどうなんですか!?」という質問を受けた。衝撃的だったせいで質問の内容も忘れたし、話題は当然のように「プロの定義」に流れた。

プロと「非プロ」の差が受け手で決まるのなら、質問したひとの裁量で否応なく僕はプロになるのだが、僕は自分自身のことを「やめないで続けてるアマチュアのひと」と思っている。

かけもちのバイトのように小説を発売してもらえたことで、そういった質問を食らったわけだが、理由は「映画になったから」だと思う。

なぜなら僕が「プロかなぁ……?」と答えたら「だって映画っすよ!映画!」と返ってきたからだ。これは皮肉ではなく、彼にとってプロとは映画なのだ。

実際、上記記事が佐久間さんに拾われて、「小説書かんかね?」に繋がった事故が事故を呼んだというマグレなので、正直プロでも何でもなく、バットを振りまくったらホームランになっただけなのだ。

でも音楽、ひいては芸事げいごとという仕事はいつだってホームラン狙いだ。山盛りのボツの上に片足で立っている。そんな理不尽な仕事である芸事というものを選んできた。

芸は水ものでもあるし収入の浮き沈みは激しい。しかし芸というのは「つぶし」がきくところがある。なんだかんだ音楽をやっていたことが関連して今もメシが食えている。

ではそんな「けっこうつぶしがきくから」という理由で音楽をやることを選んだのだろうか。全然違う。計算できるほどの知能もない。

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木曜に『さよなら、バンドアパート』の初号試写会があった。

「素晴らしいものに着地させてもらえて大変ありがとうございます❗️」と思わず絵文字を使ってしまう出来だった。エンドロールのスタッフ欄が書籍の最終ページの百倍ぐらいの人数が書かれているので、全員に会えるものなら会いたい。

映画界については無知なのだが、「初号試写会」とか「完成披露試写会」とか「映画祭披露会」とか、とにかく「会」が多い。何かにつけて上映会がある。バンドがアルバムを作ったら全国をツアーで回って、そのアルバムの曲を演るのに近いのかもしれない。

渋谷の映画館で行われた「初号試写会」には150人弱ぐらいのひとが来ていた。映画館にあんなに人間がいるのを初めて見た。

自分が書いたものがもとになって物事が動いている感動はあるのだが、あくまで原作でしかないので、「自分のもので動いている」という感覚もほんのり違う。その距離感はほどほどに心地良い。

それにしても劇場版を作るというのは「違う表現」を使用しながら「同じ本質」を触りにいかないといけないのだから大変な創作だと思った。おつかれさまです。

しかし映画化なるコンテンツは原作に対して悪くなることが多い。活字のものを映像にエンコードするとなぜトラブルが起きるのだろう。

所感だが「同じ表現」を頑張ってコピーしようとしすぎるからかもしれない。

『るろうに剣心』は良い映画だったが、コミックス同様に必殺技名を絶叫して剣心が斬りかかっていたら冷める気がする。なんていうか、いわゆる「時代劇」になっていて良かったのだ。
自分の本も同じく「違う表現」が盛りだくさんだったからよく感じたのかもしれない。

そして映画化で悪くなる要因の一つには原作者が「俺の書いたものと違うやないけ!」とガチャガチャ口を出すからじゃないだろうか。

原作者というのはメディアミックス時にはずいぶん優先されるらしく、撮影前から監督やスタッフのひとたちが「こうしていいですか?」とか「ここはどうですか?」と僕に細かくヒアリングしてくれた。

「全部大丈夫です」というスタンスで行ったが、これは僕の器がデカイのではなく、映像に対して無頓着なだけである。彼女に「何食べたい?」と聞かれると「んー何でもいい」と答えるやつと同じだと思ってもらっていい。

僕はミュージックビデオも基本的にそのノリで来ている。できあがる前のものについて聞かれてもよく分からないし、分からないものを分かったフリする必要もないと思っている。

もちろん映像が大好きなひとなら色々言うのかもしれないし、偉ぶりたい人間なら先生扱いされるのは嬉しくて仕方ないだろう。

前述したように原作者への優先具合はK点を超えている。それこそ自分がローマ法王になったかと錯覚するほど持ち上げられる。ここらへんは僕の世間に土下座したい気持ちで生きているところが功を奏した。

こういう疑似出世に勘違いしないで呼吸していたいものだ。

上映が終わった後、芸能の人々が挨拶にやってくる。

奥渋谷のイカした店にスターたちと入り、夜は黒い丸椅子と暗い店内で、オシャレかつ才能の塊みたいな人々が自分の書いた話のことをテーブルにあげてくれた。

店を出たのは日付けをまたいで数時間経った頃だった。109の前でタクシーが全速力で排気ガスを撒き散らして、ネオンはビカビカ吠えていた。「あ、東京にいる。何なら良い思いしてる」という脳の声で気分が一気に満潮になった。

中学の頃の僕があの夜の僕を見たら「未来最高!都会人!早く行きたい!」と憧れてしまうし最悪尊敬してしまうだろう。

「生きてて良かった」という夜だったのは間違いない。無いとやってられない。
だけど中学生の僕はこういう夜が、何でできているかをわかっていない。ただのつまらない日だ。「この日のためにすべてを捨てて選んできた」なんて最強の瞬間はゴミクズみたいな日々をもとに構成されているのだ。

人生の大切な時間をグシャグシャに潰し、生贄として捧げることで伝説の夜は生まれている。

そこんとこを勘違いして毎日、最高の夜を探しに行ってしまうとおかしくなる。一気に人間がつまらなくなるのはこういうときだ。

サシで飲んだときに面白くなくなるだろうし、作るものに痛みを感じることが面倒になって、言うことも浅くなり、自分の書いたものに心が鳴ることもなくなるだろう。そういうひとをいっぱい見てきた。

作品の舞台が大きくなっていくことは嬉しいけれど、作ったもののスケールが変わったわけでもないし、自分の力がついたわけでもないし、人格が素晴らしくなったわけでもない。

振り返ると、結局ここnoteに1000以上の記事を書いたことが出発点にあるし、さらに振り返ると、14の頃から歌を紙に書いてきた日に帰結する。僕はあくまでその延長にいるし、脳のレベルも変わっていない。あのしょうもない日が自分の身体と心を作っている。

思うのは才能とか能力とかでは物事は動かないということだ。希望はいつだって部屋の中でとれる小さな行動にしかない。行動と言っても指先を動かす程度のことでいい。

だけど指先を動かすと、その書かれた先は必ず想像を超えた未来をもたらしてくれる。だから僕は今日も新しいものを書いている。


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