読書メモ:『読んでいない本について堂々と語る方法』ピエール・バイヤール
私はこの本について全てを読んでいるわけではありません。
Ⅰ未読の諸段階
1:ぜんぜん読んだことの無い本
完全な読書は存在しない。個々の書物の内容よりも書物同士の全体の関係の把握を重視すべきである。この一連の重要書の全体を<共有図書館>と呼びたいと思う。書物について語る際にはこの<共有図書館>を把握していることが決め手となる。
2:ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
私たちは大抵の場合、「読んでいる」と「読んでいない」の中間領域にいる。単一の本に注意を向けることは全体を見失う危険を伴う。流し読みによって本に対して適当な距離を保つことにも意味がある。
3:人から聞いたことがある本
本との出会いには読む以外にも他人の話を聞いたり他人の書いたことを読んだりすることも含まれる。私たちが書物について話題にするのは書物自体ではなく、状況に応じて作り上げられる代替物、<遮蔽幕(スクリーン)としての書物>である。
4:読んだことがあるが忘れてしまった本
読んだ内容だけでなく読んだこと自体忘れてしまうことがある。読書は何かを得ることであるよりむしろ失うことである。
Ⅱどんな状況でコメントするのか
1:大勢の人前で
私たちが1冊の本だけについて会話を交わすということは決してない。個々の書物は、教養というもののひとつの観念全体へとわれわれを導く、この全体の一時的象徴に過ぎない。個人一人ひとりは相対としての<内なる図書館>を持っており、会話においてお互いの<内なる図書館>は関係をもつ。この関係は摩擦と衝突の危険性をはらんでいる。
2:教師の面前で
読み飛ばした。
3:作家を前にして
細部には立ち入らずとにかく褒めること。
4:愛するひとの前で
読み飛ばした。
Ⅲ心がまえ
1:気おくれしない
語ることと読むことは、切り離して考えていい2つの活動である。しかじかの本を読んでないとはっきり認めつつ、それでもその本について意見を述べることは広く推奨されてしかるべきである。教養とは個人の無知や知の断片化が隠蔽される舞台であり、この<バーチャル図書館>とも呼べる領域のおかげで私たちは他人と共生し、コミュニケーションを図ることができる。欠陥なき教養という重苦しいイメージから自分を解放すべきである。
2:自分の考えを押し付ける
書物は固定したテキストではなく、変わりやすい対象である。テキストの変わりやすさと自分自身の変わりやすさを認めることは、作品解釈に大きな自由を与えてくれる切り札である。<ヴァーチャル図書館>は自分のものの見方の正しさを主張しようと心に決めた者の欲求に合わせていとも簡単に変容する。
3:本をでっち上げる
私たちが話題にする書物というのは、物質性を帯びた現実の書物だけでなく、それぞれの潜在的で未完成な諸様態と私たちの無意識が交差する所に立ち現れる<幻影としての書物>である。私たちの会話や夢想はこの<幻影としての書物>の延長上に花開くものであるから、このあいまいさを上手く利用することで創作者になることができる。
4:自分自身について語る
批評も一種の芸術である。読んでいない本について語ることは、自己発見の特権的な空間を提供し、制約から解放された言語を通じて普段は捉えられない知識を得る手段となる。さらに、このプロセスは創造性を促し、他人の言葉から解放された読者は独自のテクストを創り出し、作家となることができる。