読書メモ:『一般意志2.0』東浩紀 1/3
第一章
2つの夢
1つは、ルソーの『社会契約論』を文字通り、素朴にベタに解釈し、「民意」や「世論」とは異なる「一般意志」のイメージを立ち上げる。
もう1つは、「情報技術革命」(世の中の情報の体系化)が、「一般意志」の構想と響き合っているか、その呼応関係について語る。
ルソーについて
生前は『社会契約論』よりも『新エロイーズ』の作者として、硬派な政治思想家よりもロマンティック恋愛小説の書き手ちして知られていた。
ルソーの思想は一方で極端な個人主義者であるかのように、他方で極端な全体主義者であるかのように見えてしまうという矛盾をはらんでいる。
ルソーは、個人の社会的制約からの解放、孤独と自由の価値(『学問芸術論』、『人間不平等起源論』)を訴えた思想家であったが、同時に個人と国家にの絶対的融合、個人の全体への無条件の包含(『社会契約論』)を主張した思想家でもあった。
集合知と群れの知
「集合知」、または「群れの知恵」という概念は、個人の能力を超えた知性を集団が生み出す現象を指し、情報技術の発展により、その可能性と重要性が飛躍的に高まっている。従来の「三人寄れば文殊の知恵」という考えが、現代では数千、数万人規模で意見を集約できるようになり、ソーシャルメディアなどを通じて日常的に実践されている。この概念は単なる経験則ではなく、スコット・ペイジによる「多様性予測定理」と「群衆は平均を超える法則」という数学的定理によって裏付けられており、多様性が増すほど群衆の予測が正確になり、群衆の予測が構成員の平均的予測を必ず上回ることが証明されている。つまり、集合知は今や実証的かつ実用的な概念として、社会や技術の様々な分野で注目され、応用されつつある。
第二章
『社会契約論』読解
ルソーの『社会契約論』は、その構成自体が思想の核心を表現しており、社会契約、一般意志、統治形態の順に論じられている。ルソーの考えでは、自由で孤独な個人が社会生活を営むために結ぶ社会契約によって一般意志が生まれ、それを実現するための手段として統治機構が設立されるという順序が重要である。この理論の特徴は、社会契約が支配者と被支配者の間ではなく、個人間で結ばれるものであり、その結果生じる人民の一般意志が主権を持つとされる点である。政府はこの一般意志の執行機関にすぎず、主権と政府の区別によって、人民に革命権が保証される。
ルソーの社会契約論は、ホッブズなど他の思想家とは異なり、現実の政府との契約ではなく、抽象的な共同体形成の過程を描いている。この考え方では、一般意志は理念的な存在として捉えられ、現存制度の改革を促す論理的基盤となる。ルソーは、例えば現代の日本で言えば、実際の政治機構とは別に「日本の一般意志」が確実に存在し、国家はそれを常に意識すべきである。
この複雑な概念は、単なる革命の方便としてではなく、現実の政治機構とは別に存在する「国民の総意」として理解することが重要である。ルソーの社会契約論は、権利と義務の単純な交換ではなく、社会そのものを作り出す過程を描写しており、これは従来の「俗流社会契約論」とは大きく異なる。一般意志の具体的な所在や性質を探ることは、ルソーの思想を理解する上で重要な課題となっている。
「一般意志」再考
ルソーの『社会契約論』における一般意志の概念は、単なる世論や総意以上の複雑さを持っている。ルソーは一般意志を「全体意志」と対比させて説明し、両者の決定的な違いを強調する。全体意志が個別の意志の単純な総和であるのに対し、一般意志はより洗練された概念として提示されている。
ルソーによれば、一般意志は「つねに正しく、つねに公共の利益に向かう」ものとされ、これは単なる「世論」とは明確に区別される。彼は一般意志を数理的に表現しようと試み、「特殊意志から相殺しあうプラスとマイナスを取り除いた差異の和」として定義している。この定義は、現代の数学概念を用いれば、ベクトルの和として理解することができる。
全体意志が個別の意志をスカラー量として単純に合計するのに対し、一般意志はベクトル量として個別の意志の方向性を考慮に入れた和として捉えられる。これにより、一般意志は単なる多数決や利害の総和ではなく、社会全体の方向性を示す概念となる。
さらに、ルソーは主権者、統治者、人民の関係を数理的に表現しようと試みている。例えば、適切な統治者の数を人民の数の平方根として提案するなど、社会構造を数学的に捉えようとする姿勢が見られる。
これらの数理的表現は、必ずしも厳密な数学的モデルではないが、ルソーが一般意志を単なる抽象的概念ではなく、ある程度数量化可能な概念として捉えていたことを示している。この視点は、民主主義の基礎となる一般意志の概念が、単なる理想や目標ではなく、社会の構造や人々の意志から数理的に導き出せる可能性を示唆している。
まとめ
一般意志は政府の意志でも個人の意志の単純な総和でもなく、また単なる理念でもなく、むしろ数学的に捉えられる存在として理解される。この解釈に基づけば、21世紀の情報技術を前提に社会契約を再考する際、単に電子投票や政策審議の透明化、集合知の活用といった政府改革に留まらず、より根本的な民主主義のあり方そのものを再構築する可能性が示唆される。ルソーの理論に忠実に従えば、一般意志は従来の「政治」の枠組みを超えた存在であり、この認識を出発点として、新たな民主主義の姿を構想することが本書の目的である。
第三章
続「一般意志」再考、「モノに従う政治」
ルソーの『社会契約論』における一般意志の概念は、従来の民主主義理論や政治的コミュニケーションの理解を大きく覆す、極めてラディカルな思想である。ルソーは一般意志を、個人の意志の単純な総和である全体意志とは明確に区別し、特殊な数学的操作によって抽出される存在として捉えている。特筆すべきは、ルソーが一般意志の形成過程において、市民間の討議や意見調整を不要、むしろ有害とみなしていることである。彼は、市民が情報を与えられているだけで、相互のコミュニケーションがない状態のほうが一般意志の適切な抽出には好ましいと主張している。これは、一般に想像される民主主義的な合意形成のプロセスとは真逆の考え方である。
ルソーの理論によれば、一般意志は「差異の和」であり、むしろ意見の差異が多ければ多いほど正確になるとされる。そのため、結社や政党の形成、さらには政治的な議論の場そのものが、一般意志の出現を阻害すると考えられている。この視点は、単なる直接民主主義の支持を超えて、政治そのものからコミュニケーションを排除すべきだという主張にまで及ぶ。
ルソーは一般意志を、人間の意志や合意の結果としてではなく、むしろ自然物のように客観的に存在する「モノ」として捉えている。彼の考えでは、一定数の人間が存在し、社会契約が結ばれていれば、選挙や議会などの政治的プロセスがなくても、一般意志は数学的に存在してしまう。
このような一般意志の概念は、人間が作り出す政治ではなく、客観的に存在する「モノ」に従う政治という、極めて独特な政治観を示唆する。これは、我々が通常理解している民主主義や政治的プロセスとは大きく異なり、政治哲学に新たな視点を提供するものといえる。
ルソー再考:「オタク」思想家ルソー
ルソーの政治思想は、一般的な民主主義理論や社会契約論とは大きく異なる独特の視点を持ってる。彼の『社会契約論』における一般意志の概念は、個人間のコミュニケーションや意見調整を不要とし、むしろ有害とさえ見なす点で極めてラディカルである。
ルソーは、差異が多いほど一般意志の正確さが増すと主張し、これは現代の集合知理論にも通じる洞察である。彼は結社や政党の形成を批判し、市民が個別に意思表明するだけで一般意志が立ち上がる状況を理想とした。この考えは、現代の二大政党制の問題点を先取りしているとも解釈できる。
ルソーのこの独特な政治観は、彼の人間観や社会観と密接に関連している。彼は基本的に孤独を愛し、人間同士の相互依存や社会状態を悪徳の源泉と見なした。『学問芸術論』や『人間不平等起源論』などの著作で、文明や言語、学問が人間を不幸にすると主張している。
この思想は、ルソーの個人的な経験にも反映されいる。彼は啓蒙主義全盛期のパリのサロン文化に馴染めず、都会の「おしゃべり」を嫌い、自然や田園生活を理想視した。晩年には人間社会から完全に疎外された感覚を抱くまでに至っている。
ルソーは、一般に政治思想家や社会思想家といった言葉で想像されるものとはかなり懸け離れた、現代風に言えばじつに「オタク」くさい性格の書き手だった。彼は、人間嫌いで、ひきこもりで、ロマンティックで繊細で、いささか被害妄想気味で、そして楽譜を写したり恋愛小説を書いたりして生活をしていた。『社会契約論」は、そのようなじつに弱い人間が記した理想社会論だった。
ルソーのこのような性格や経験を踏まえると、彼がコミュニケーションなしの政治、サロンなしの一般意志の生成を理想としたことが理解できる。彼の思想は、一見矛盾するように見える個人主義と全体主義の両面を持っているが、これらは実は「人間の秩序(コミュニケーション)から自由になり、モノの秩序(一般意志)にのみ基づいて生きる」という一つの理想に収束している。
つまり、ルソーの政治思想は、単なる民主主義理論や社会契約論ではなく、彼自身の人生経験や価値観が深く反映された、極めて個人的かつ独創的な社会理想論だったと言える。
個人的メモ
一章で述べられているようにルソーのテキストを文字通り、ベタに読むことを通じて「一般意志」を再解釈している。
一般意志が「数学的に捉えられる存在」に捉えるというルソーの読解は一般的ではないようである。例えば、『今こそルソーを読み直す』(仲正昌樹、2010)には、「一般意志は、私的利害間の機械的な算術から生まれてくるのではなく、「熟慮=討議 délibération」を経て見出された「共通の利害」を起点として構成されるのである。」(p.137)とはっきりと書いてある。
これは、ルソーをが『社会契約論』の中で「しかし、これらの個別意志から、相殺し合うプラスとマイナスを除くと、差異の総和として、一般意志が残ることになる」と述べている部分(第二篇第三章:一般意志は誤ることがあるか)を註を含めた読解になっている。
この読み方の違いは面白いと思った。「差異の総和として」という部分を文字どおり(リテラル)に読むかどうかでルソー解釈に違いがでてくる。
さらに面白いのは、一般意志を数理的なモノとして解釈していた東浩紀が後の『訂正可能の哲学』で熟議にも開かれたものとしてその解釈にいささかの修正(訂正)を加えていることである。
更に東は上記の箇所に続く以下の部分についても文字通りの読解をし、ルソーが、政治にコミュニケーションは必要ないと主張したと断言する。
「もし、人民が十分に情報を与えられて熟慮するとき、市民がたがいにいかなるコミュニケーションも取らないのであれば、小さな差異が数多く集まり、結果としてつねに一 般意志が生み出され、熟慮はつねによいものとなるであろう。[・・・]一般意志がよく表明されるためには、国家のなかに部分的社会が存在せず、ま た各市民が自分だけに従って意見を述べることが重要なのである。」
この部分は本文中で触れられている通り、白水社版の全集でも岩波文庫版での微妙に原文とは異なるニュアンスで訳されてしまっていることが指摘されている。
フロイトの「無意識」を導入する2部やグーグルなどの情報技術と政治の在り方を考察する3部もあるが、それらの読書メモは別の機会に回して、次は『訂正可能性の哲学』の第2部「一般意志再考」を読んでメモを作りたいと思う。