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読書メモ:『目的への抵抗』國分功一郎

第一部 哲学の役割―コロナ危機と民主主義

この動画の内容をまとめたものなので詳細は省略

第二部 不要不急と民主主義―目的、手段、遊び

必要と目的

不要不急は必要の概念と関わっている。そして必要は何らかの目的と結びついている。必要の概念は目的の概念と切り離せないものになっている。

贅沢とは何か

我々は人間の生存にとっての必要という限界を超えた支出が行われる時に、それに贅沢を感じる。

消費と浪費

贅沢を享受することを「浪費」と呼ぶならば、人間は浪費を通じて豊かさを感じ、充実感を得てきた。しかし、20世紀以降人類は「消費」を始めた。浪費には終わりがあるが、消費には終わりがない。消費は物ではなく観念や記号を対象とする。

浪費家ではなくて消費者にさせられる

消費社会の中で我々は浪費できず、記号消費のゲームへと駆り立てられている。浪費はどこかで満足して終わる。消費ではなくむしろ贅沢を求め、物そのものを受け取って浪費することこそが大切。物をきちんと受け取って楽しむことが全般化すれば社会は変わる。

目的からはみ出る経験

贅沢の本質には、目的なるものからの逸脱がある。我々が豊かさや充実感を感じるのは、目的をはみ出た部分によってである。楽しんだり浪費したり贅沢を享受したりすることは、生存の必要を超え出る、あるいは目的からはみ出る経験であり、我々は豊かさを感じて人間らしく生きるためにそうした経験を必要としている。必要と目的に還元できない生こそが、人間らしい生の核心にある。

目的にすべてを還元しようとする社会

現代社会はあらゆるものを目的に還元し、目的からはみ出るものを認めようとしない社会になりつつあるのではないか。全てを目的に還元する論理、目的をはみ出るものを許さない論理は、消費社会の論理を継続するために、現在、この社会でその支配を広げつつある。人々を記号消費のうちに留めておこうとする論理と、必要や目的を超え出る浪費を行おうとする人間に贅沢を戒める論理とが手を結んだ所に現代社会があり、コロナ危機下、不要不急と名指されたものを排除するのを厭わない傾向が支配的となれたのは、もともとこの二重の理論が支配的だったからではないか。

目的と手段

目的の概念の本質は手段を正当化する所にある。

すべてが目的のための手段となる

コロナ危機下において実現されつつある状態とは、もともと現代社会に内在していて、しかも支配的になりつつあった傾向が実現した状態ではないか。不要不急と名指された活動は、コロナ危機だから制限されただけでなく、そもそもそれを制限しようという傾向が現代社会のなかにあったのではないか。

自由な行為とは何か

自由について考えるのであれば、政治という複数性の営みの中でどう生きるか、どう振舞うか、どう行為するかという観点からこれを定義しなければならない。自由について考えることは、行為の自由について考えること、政治という複数性の営みのなかでどう自由に生きるかという問いに取り組むことに他ならない。

動機づけや目的を超越すること

行為にとって目的が重要な要因であることに間違いないが、しかし行為は目的を超越する限りで自由である。そのような状態とは簡単にいうと楽しくなること、その過程そのものが楽しみになることである。

遊びについて

目的によって開始されつつも目的を越え出る行為、手段と目的の連関を逃れる活動とは、一言でいうと「遊び」である。遊びには、明らかに手段と目的の連関を逃れる側面がある。「遊び」はその「ゆとり」という意味において合目的な活動から逃れるものである。遊びは真剣に行われるものであるし、ゆとりとしての遊びは活動が上手く行われるために欠かせないものである。

遊びとしての政治とプラトン

遊びを意味する「パイディアー」は、人間形成を意味する「パイデイアー」に通じている。プラトンは真剣に遊ぶことの重要性をといている。

まとめ

私たちの生活から目的が消えることはないし、目的合理性に基づく行政管理も消えることはない。問題は、全てが目的合理性に還元されることへの警戒である。人間は自由に行動する中で、同意や共感だけでなく、不同意や反感も生まれる。対話や調整が必要になり、喜びや充実を感じることもあれば、苦しい思いをすることもある。
政治は人間が避けられないが、人間だからこそできる活動であり、目的に奉仕するだけでなく、目的のための犠牲を正当化しない活動である。目的から自由な活動を忘れると、人間は目的のためにあらゆる手段や犠牲を正当化するようになる。
コロナ危機下の社会では、不要不急とされるものを排除することに対して、「無駄なことも必要」という異論をとなえることに意義があると考えられる。しかし、「無駄」についてのこの主張は、目的合理性を前提としているため注意が必要である。目的合理的な活動が社会からなくならない限り、そのような要求には意義があるが、人間の活動には目的に奉仕する以上の要素があり、その目的を超えることができる場に自由が存在する。
人間の自由は、必要を超えたり、目的からはみ出たりすることを求めるものであり、広い意味での贅沢と不可分である。そこに人間が人間らしく生きる喜びと楽しみがあると思われる。


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