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内田樹『武道論』-ただの思想には興味ありません-

0. はじめに

今回は、とあるオンラインコミュニティのメンバーであるシトさんが紹介してくださった、内田樹の『武道論』に関連する文章を書いてみようと思う。シトさんのリンクを以下に掲載する。

内田樹は個人的によい印象をもっていないため、あまりこの本は読みたくなかった。国語の評論文で苦しめられた記憶があったからだ。本書は評論ではなく、様々な媒体に投稿したコラムが中心となったエッセイであり、読むだけであれば全く苦にならなった。武道に関することが書かれてはいるものの、武道に関することを読みたいと思ってこの本を手に取ることはオススメしない。武道についてならヘッダーの画像に示した嘉納治五郎について調べたほうがよっぽどよい。本書は武道をとっかかりとして内田樹の思想がちりばめられたものであるから、内田樹に興味のある人以外は読む必要がない。私自身、本書を読んで内田の思想に共鳴するものはなかった。それでも、内田の姿勢に見習うべきところはあるため、それについて以下の文章を用意した。本書の内容とはほぼ無関係であることを断っておきたい。

1. 思想を伝えることにおわりはない

「はじめに」にも書いたように、本書は様々な媒体の文章を寄せ集めたものであり、そのためか似たような話を何度も読まされる。ふだんから内田樹に触れている人であればいわれなくてもわかるような内容であろうし、私のように詳しくない人でも何度も読めば「もうわかったよ」と言いたくなる。私は、くどいほど同じ話をする内田の姿勢に見習うところがあると考えている。毎日顔を合わせる親やきょうだいであっても、何も言わずに以心伝心することは困難である。水を出しっぱなしにしないでほしい、電気を消してほしいなど、お互いの気持ちや行動をすりあわせる項目はたくさんある。何度もすりあわせることによってお互いの共通理解ができて、だんだんとお互いの気持ちがわかるようになってくる(わかった気になっただけかもしれないが、この点には深入りしない)。
電気を消すなどの単純で具体的なものについては共通理解を得るのはそれほど大変ではないかもしれないが、自分の気持ちや考えを相手に伝えて、かつ理解してもらうことはかなり難しい。一度考えを伝えたり文章に残したりすれば相手が理解してくれると考えるのはとても傲慢である。何度も考えを伝えたり改めて文章を書いてみることで、自分の考えが整理されることが期待できるし、相手に理解してもらえるチャンスを増やすこともできる。自分の考えを後世まで、あるいは広く知らしめたいと思うなら、本を書いて満足するのではなく自分でそれを布教する努力をするべきである。学術的な話や宗教であれば、論文や学術書、聖典などを読み継いでくれる可能性はあるが、多くの人にとって、自身の考えを表明したところで本人が死ぬ前から記憶や記録からは消えていってしまう。どれほど賢い人間でも布教活動を怠る者が「私の考えをわかってもらえない」と嘆いても何の同情もない。

ライトノベルの涼宮ハルヒシリーズ第五巻『涼宮ハルヒの暴走』やアニメで描かれた「エンドレスエイト」は、夏休みの15日間を延々とループする世界にハマってしまい、そこから脱出するために奮闘する物語である。原作では15498回目のループで脱出に成功する。これは、15498回目にゴールにたどり着くことができたという意味であり、1回目から15497回目までのループで登場人物たちが何もしなかったり無意味なことをしたということを意味しない。15497回の試行錯誤がなければ15498回目で脱出できなかったかもしれない。自分の考えを伝えることにここまで試行錯誤する時間はないとしても、せめて2-3回やってみてはいかがだろうか。

ここでわざわざハルヒの話を出さなくても「自分の考えを何度も伝えなさい」という私の主張は文章に表れていると信じている。しかし、これがあることでこの文章がハルヒファンの目に留まるかもしれないし、この言い換えによって理解が促される人がいるかもしれない。一人でも多くの人にこのことの重要性を理解していただければ幸いである。


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